現在,私たちは激動の真っ只中にあります。世界に目を向けると,マネーの動き,企業の動きは一国の狭い枠を超えてグローバルに,世界へと広がっています。それと同時に,雇用問題も環境問題も平和問題も,やはりまた一国で解決できるようなものではなくなってしまいました。私たちが行ったこともない国の事件が,私たちの日常を左右するようになっているのです。国内に目を向けても,私たちの身の回りに起こるさまざまな問題の多くは,個人では解決できないものです。それらはオープンに提起されており,従ってオープンに解決されなければなりません。しかも,そのような国際的・国内的な問題は全く新しい,きわめて多様・複雑な形で起こっているのです。
このようなグローバルでオープンな問題の解決の要請に,科学はどのように応えていけばよいのでしょうか? 対象である社会的な社会システムの運動そのもののマクロ・ミクロの発展に応じて,社会科学もまた専門化していきました。けれども,一つの専門領域にしがみついても,当の専門領域が他のいろいろな専門領域と不可分に結び付いてしまっているのです。──このように,マクロで見てもミクロで見ても,もはや社会的運動の研究はばらばらの個人の能力を越えてしまいました。まさに今こそ,共同研究が求められているのです。
未来を代表するはずの批判的理論の方は,いったい,どうなっているでしょうか。たしかに,これまでにも社会批判を主張する研究者たちは共同研究を行ってきました。ところが,それはあまりにもしばしば,閉鎖的な学者ギルドの──そしてそれを通じてやはり閉鎖的な政治的セクトの──正当化の役にしか立たないものではなかったでしょうか。
他方では,ソ連のいわゆる“社会主義国”の崩壊は既存の社会批判の崩壊をあからさまにしました。これは驚くことではありません。既存の社会批判は理論的には既にとっくの前から崩壊していたのです。でもソ連の崩壊によって,研究者たちは心のつっかえ棒の最後の一本も取り払われ,今やなんのためらいもなく自由に研究を行うことができるようになりました。けれどもそれと同時に,既存の社会批判の崩壊は,批判的理論一般の魅力を色褪せたものにしているだけではなく,その自由な研究を保障する制度的な環境をも奪ってしまいつつあります。そもそもその研究そのものが困難になりつつある以上,今や,批判的理論の共同研究はますます困難になっています。
過去には,現代社会の批判的な共同研究が,そしてそれとともにアンデパンダンな研究会が,今日ほど大きな課題になっていたことはありませんでした。この研究会は,専門分野が異なる研究者たちがネットワークを組むことで,この課題にアプローチしていきます。