日時 | 1999/05/23 |
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場所 | 立教大学 |
テーマ | 『明日を支配するもの』 P.Fドラッカー著 ダイヤモンド社 1999年 |
範囲 | 第1,2章 |
報告 | 今井 祐之 |
この書でのドラッカーの議論の大前提になっているのは,『ポスト資本主義社会』で既に展開された議論,すなわち先進諸国ではプロレタリア独裁が既に実現されてしまっているという議論である。もし読者がドラッカーのこの主観的な革命理論 (注1) を把握しておかないならば,この書は全く理解不可能である。
直接的生産過程の内部での革命と直接的生産過程の外部での革命とは,もちろん,現実的に分裂したものとして現れるのだが,しかし前者から後者が発生するという発生的関連にある。ところが,ドラッカーには,直接的生産過程の内部での革命(私的労働の止揚)と直接的生産過程の外部での革命(私的所有の止揚)とを──形式的に結合するのではなく──有機的に結合する理論は最初からなかった。だからこそ,社会変革を直接的生産過程での客観的革命で根拠付けようとすると,逆に,直接的・暴力的 (注2) に根拠づけるしかないのである。つまり,直接的生産革命の内部での革命に着目しているという点から,ドラッカーの社会変革論を整理すると,ドラッカーの理論体系に即しては,社会変革の拠点は工場共同体でしかあり得ないのである。
ところが,彼が夢想した工場共同体は,当然のことであるが,実現されなかった。それどころか,物象化はますます進展し,組織は個人と完全に対立しているということが暴露されてしまった。工場共同体を支えるべきである労働組合は,共産主義の学校であるどころか,既存の資本主義的システムを支えていた。労働組合は,それ自体,労働する諸個人から疎外された敵対的な組織であった。資本主義の変革拠点としての個別的資本の位置付けは,ドラッカーにおいては,そもそも理論的には最初から破綻していたのであるが,実践的にもまた完全に破綻した。ドラッカーは敗北に敗北を重ねた。ドラッカーは生涯において一度も勝利を収めずに虚しく惨めに死んでいくはずであった。偉大なオーエンと同様に,オカルトに逃げ込むのもよかろう。逃げ道はないはずであった。
突如として,個別的資本の直接的生産過程の外部から,pension fund socialismとNPOとが彼を襲ってきたのである。これこそは,ドラッカーにとって,ついに発見された新しい形態の萌芽であった。
絶えずアウシュビッツとラーゲリと非米委員会との悪夢の中で不安を訴えていたドラッカーは,今では精神の白痴的な平安を保っている。このことは,彼が実践的な欲求を失ったということを決して意味していない。逆である。白痴的な平安には傍観者を越える白痴的なアジ演説が対応しているのである。
ドラッカーはここ20年間の間,一貫して共産主義論を書いている。その背景になったのは,もちろん,アメリカでの資本安楽死現象──ドラッカーにとっては何にもましてpension fund socialism──である。
ドラッカー体系においては,直接的生産過程の内部での革命とpension fund socialismとはいかなる意味でも有機的・発生的な関連にはない。両者はせいぜい形式的・暴力的・非理論的に結び付けられるのに過ぎない (注3) 。もし両者が有機的に結合されていたのであれば,両者とも現代社会の中での発生的関連における変革であって,ここから社会変革の展望が導出されたであろう。ところが,ドラッカーの理論体系では,──これは現代社会そのものがそのような構造で現れるからなのだが──,前者に着目すると専ら前者から直接的に未来社会が派生しなければならず,後者に着目すると専ら後者から直接的に未来社会が派生しなければならない。だから,前者からの直接的な社会変革の展望がない以上,後者から直接的に社会変革が導出されなければならない。さて,どうするか。
ここで,ドラッカーは最大の虚言を弄し,最大の自己欺瞞に陥るのである。──すなわち,現代社会の枠内での後者の革命が直接的に未来社会への社会変革そのものである,と。要するに,現代社会の内部での自己否定的な現象を,直接的に,未来社会の形態にすり替えてしまったのである。pension fund socialismを文字通りのsocialismにすり替えてしまったのである。
こうして,直接的生産過程の内部での私的労働の止揚と直接的生産過程の外部での私的所有の止揚 (注4) との分裂を非有機的に固定させるドラッカー理論は,ドラッカー自身の理論態度について二つの転回を齎すに至った。
第一。現代社会が既に未来社会の枠内に含まれてしまった。つまり,現体制は既にプロレタリア独裁に入っているのである。もはや現体制は危機を脱して,弁護されるべきものになっている。アメリカは社会主義祖国になった!──こうして,体制危機論は体制弁護論に転回している。
嘗てドラッカーは資本主義的生産という形式そのものの危機問題(特に私的所有の危機問題),民主主義の危機問題,労働疎外問題の鋭い洞察者であった。なるほど,現状はまだプロレタリア独裁の段階にある(まだ共産主義ではない)から,なおこのような危機問題を彼は時折り展開せざるを得ない。しかし,現状は既にプロレタリア独裁の段階にある(もはや資本主義ではない)から,彼はこのようなシステムそのものの矛盾を個別的当事者の矛盾にすり替えてしまう。すなわち,ドラッカーにとっては,このような危機はシステムそのものの廃棄によってではなく──システムそのものには矛盾があってはならない──,個別的当事者の個人的努力と諸々の個別的当事者たちの理性的合意とによって乗り越えられなければならない。
第二。現代社会は既にプロレタリア独裁に入っているのにも拘わらず,このことは(工場共同体の場合とは異なって)knowledge workerによって自覚的に達成されたわけではなく,従ってknowledge workerにとって全く外面的(結局のところ無関係)である。つまり,当のプロレタリア独裁を担うべきknowledge workerの主体的・主観的・意識的・自覚的な変革が置き去りにされてしまっているのである。現代社会は変革主体の主体的形成なしに,──意識的・自覚的革命なしに,つまり『見えざる革命』(The Unseen Revolution)によって──,未来社会に移行してしまったわけである。だからまた,未来社会は物象的な社会ではなく,自覚的・人格的な社会であるのにも拘わらず,未来社会を自覚的・主体的に担う主体がいない(無自覚的・客体的に担う主体はいるとしても)ということになる。そこで,未来社会の客体的形成の後に未来社会の主体的形成(自覚化)という作業が残されている。ところが,未来社会の主体的な担い手になるべき当のプロレタリア前衛(すなわちknowledge worker)にはこの自覚化が不可能なのである。何故ならば,形成された社会は自覚的である(べきである)のにも拘わらず,この自覚化を成し遂げるべき自覚的な社会形成がなかったからである (注5) 。だから,システム(未来社会として表象されているが,実は現代社会)ではなくドラッカー(という個性)がこの自覚化を達成しなければならない。
こうして,未来社会の到来は「明らかになった
」(ドラッカー(1993),第30頁;Drucker (1993), p.7)のだが,決して当事者意識に対して「明らかになった」のではなく,まだドラッカーの意識に対して「明らかになった
」のでしかない。しかしまた,革命がドラッカーの主観の中に留まっているということは,彼がもはや『傍観者の冒険』(Adventure of A Bystander)ではいられないということを意味する。既に革命が生じ,既にプロレタリア独裁の社会が到達しているのだが,しかしこの革命は見えざる革命,すなわち自覚化されていない社会変革であるから,その自覚化はドラッカーという個性の説教によって成し遂げられるしかない。──こうして,傍観者は説教坊主に転回している。システムに即しては,危機の自覚化が消えるのとともに,革命の自覚化も未来社会の自覚化も消え失せてしまった。実践に即してのアジ演説家への冒険する傍観者の転回と,理論に即しての主観主義への客観主義の転回とが照応し合っている。
社会システム全体については,既に『ポスト資本主義社会』がアジ演説をした
(注6)
。本書は,個別的企業についてアジ演説をする。──「このように,この本は行動せよと呼びかける本〔a Call for Action〕なのである
」(p.ix)。俗流“マルクス主義者”たちと全く同様に,破廉恥極まりないプロレタリア前衛理論に基づいて。ドラッカーにとって,knowledge worker(その頂点がmanager)をプロレタリア前衛として分裂的に固定化するということは至上命題になっている。何故ならば,後に見るように,knowledge workerはmanual workerとは異なるものとして分裂的に固定されており,そして主体的前衛の資格を与えるべき客体的な変革はただこの分裂的に固定されたknowledge workerにのみ妥当するものとしてやはり分裂的に固定されているからである。
ドラッカーは正当にも当事者意識の転回を現実的生産関係の発展に求めている。しかし,決定的なポイントは,当事者意識の転回を当事者自身は直接的には把握し得ないということである。ドラッカーの場合には,当事者は自分自身の意識の変化に全く無自覚的である。当事者は自分自身で気づかないままに,意識の革命を経験しなければならない。だからこそ,傍観者であろうとアジ演説家であろうとドラッカーという個性がこれを把握し,その尖兵がこれを宣伝しなければならない。プロレタリア前衛──知識労働者(その中でも経営労働者は前衛の中の前衛である)──の必要性は,ドラッカーにあっては絶対的であり,全く以て吐き気をもよおすほどである。
そもそもドラッカーの理論的な立場からは,個別的資本の直接的生産過程の内部での客体的変革──特にナリッジワーク現象──から,主体的変革──特に工場共同体──が導出されるはずであった。このような仕方で,客体的変革と主体的変革とは統一されていたはずであった。しかしまた,個別的資本の枠内で当事者(という主体)が客体的に変革されるということと,その主体的変革が工場共同体という形態で実現されるということとは媒介されていない。ドラッカーはナリッジワーカーが工場共同体を作るこというとを期待し,提言していたのに過ぎなかったのだ。そもそもナリッジワーカーの当事者意識の変革と社会的意識の変革とは無関係であったのだ。だからまた,主体の客体的変革と主体の主体的変革とも無関係であったのだ。そこで,今度は直接的生産過程の外部から,直接的生産過程の客体的変革とは無関係に,客体的変革論を持ち込まざるを得なくなった。だからまた,客体的変革と主体的変革とは全く無関係だということになってしまった。今では,客体的変革と主体的変革もまた分裂したまま非有機的に固定されているということが明らかになっている。ドラッカーは自分自身を全うしているのだ。
ドラッカーの嘘は実はスターリン的な嘘そのものである。正にドラッカーこそはスターリンなのである。スターリンは客体的変革などお構いなしに共産党の指導によってソ連が共産主義未来社会に移行したと宣言した。これに対して,ドラッカーは主体的変革などお構いなしに資本の指導によってアメリカが社会主義未来社会に移行したつつあると宣言した。全く正反対の方向からであるが,ドラッカーのやっていることはスターリンのやっていることと全く同じである。社会主義祖国ソ連を社会主義祖国アメリカに置き換えただけのことである。われわれはスターリンとドラッカーがいかに違うのかを見る。だが,スターリンとドラッカーとは全く同じだったのである。
ドラッカーの現代資本主義論の最大のメリットはあれやこれやの独占現象にではなく,直接的生産過程の客体的変革に出発点をおいたということにある。しかし,そもそもドラッカーのフレームワークでは,どのようにしても直接的生産過程の外部での客体的変革は直接的生産過程の内部での客体的変革に結び付いていない。だから,今では事実上,ドラッカーは直接的生産過程論を──変革契機論としては──放棄しまったのである。今では,直接的生産過程の外部での客体的変革と直接的生産過程の内部での客体的変革ともまた分裂したまま非有機的に固定されているということが明らかになっている。ドラッカーは自分自身を全うしているのだ。
さて,傍観者からアジ演説家への転回というわれわれの図式を振り返ってみよう。
一体に,傍観するとはどういうことであろうか。自己を当事者意識から切断し,第三者意識として固定するということであろう。しかしまた,この場合の傍観はフンコロガシに対する観察では決してなく,社会に対する傍観である。だから,観察対象と観察者との同一性が最初から前提されているのである。傍観するという態度自体が,傍観という仕方での社会に対する関係行為なのである。社会を対象にする限りでは,傍観者は正に冒険する傍観者でしかあり得ないのである。
嘗てドラッカーは自覚的に自分自身を傍観者の位置に固定しようとした。もちろん,その主観的な個別性において傍観者であるということがその客観的な個別性において極めて実践的・主体的であるということは,客観的マルクス主義者たちが個別的な実践活動において実に熱心であるということと全く同様である。以下で見るように,客観主義の実践態度というのはそれ以外にあり得ない。実際にまた,ドラッカーは常に,彼自身の狭い個別性の内部では,個別的実践活動に明け暮れていた。
このような,実践における実践的な振る舞いは理論における実践的な振る舞いとしてはどのようなものになるしかないのであろうか。──ドラッカーは自分が傍観者(第三者)であると自覚しているが,社会に対する傍観者であるから,社会に対してコミットするのであり,従って当事者に対してコミットする。こうして,傍観者は社会の内部での傍観者に,要するに当事者になるしかない。当事者に対してコミットした時点で,既に当事者になってしまっているのである。しかしまた,傍観者は,傍観者である以上,当事者になってはならない。傍観者は当事者になっているのだが,当事者ではないという仕方で当事者になっているのである。こうして,当事者に対する傍観者の振る舞いは個別的・外面的であるしかない。このような個別的・外面的な振る舞いは,理論そのものに即しては冒険であり,理論的実践に即しては説教であり,アジ演説である。だから,一方から見ると,傍観者はアジ演説家である。傍観者はただアジ演説をする限りでのみ傍観者たり得るのである。
今度はメダルの裏面を見てみよう。われわれは,これまでは過去のドラッカーを見てきたが,今度は現在のドラッカーを見るわけだ。──既に述べたように,資本主義社会の崩壊とポスト資本主義社会の到来と(つまり革命)はドラッカーの意識に対して明らかになったのでしかなく,ドラッカー以外の当事者たちの意識には絶対に明らかになっていない。革命は見えざる革命でしかなかった。当事者たちはポスト資本主義社会の住民になったということに気付かないうちに,ポスト資本主義社会の住民になってしまった。ドラッカーは意識の変革を経験したのにも拘わらず,ドラッカー以外の当事者たちは意識の変革を経験していないのであって,このような仕方でドラッカーの意識は当事者たちの意識から切り離されている。だからこそ,知が無知に説教する──call for actionを行う──必要がある。説教するのは絶対にドラッカーであり,説教されるのは絶対にドラッカーではないのだから,実はドラッカー自身は(当事者から分裂するものとして固定された)第三者的な立場に留まり続けているのである。実はドラッカーは説教するという仕方で傍観しているのである。だから,他方から見ると,アジ演説家は傍観者である。アジ演説家はただ傍観者する限りでのみアジ演説家たり得るのである。
ドラッカーにおいては,当事者意識と第三者的意識とは分裂的に固定されているからこそ,逆に直接的に統一されざるを得ないのである。第三者的意識は当事者意識では絶対になく,且つ当事者意識は第三者的意識では絶対にないからこそ,だからこそ逆に,当事者意識は絶対に(直接的・無媒介的に)第三者的意識であり,且つ第三者的意識は絶対に(直接的・無媒介的に)当事者意識なのである。実は傍観者とはアジ演説家のことなのである。どちらも,当事者に対する個別的・外面的な振る舞いであり,それが二つに分裂して現れているのであり,分裂という仕方で直接的に統一されているのであるという点で全く同じなのである。
われわれは傍観者がアジ演説家に転回したということを見た。しかし,そもそも傍観者的な立場など存立し得ないのであるから,アジ演説家こそがドラッカーの真の姿であり,破綻形態である。そもそもこいつドラッカーの総ての理論は破滅するしかなかったのだ。転回は彼自身の中での分裂だったのだ。関係しているのに関係していないと強弁する矛盾した振る舞い(過去の冒険者傍観者ドラッカー),関係していないのに関係していると強弁する矛盾した振る舞い(現在のアジ演説家ドラッカー)──この二つの矛盾した振る舞いが相互に矛盾しているのであって,この矛盾の矛盾の中で──自身は矛盾を自覚することなく──ドラッカーという個性が揺れ動いていただけなのだ。ドラッカーは現代社会に弄ばれていただけなのだ。
しかし,それにも拘わらず,私的労働の止揚(組織社会,知識社会)はもちろんのこととして,私的所有の止揚(株式会社,NPO,pension fund socialism)だけでも,プロレタリア独裁に移行するということはできなかった。資本主義は世界市場の完成に──つまり世界の成立に──まで行き着かざるを得ず,また,行き着いた瞬間に──世界が成立した瞬間に──資本主義社会はポスト資本主義社会になってしまっている。ドラッカーにとっては,直接的・暴力的に,世界市場の完成が──疎外された世界の完成であるのではなく──世界の完成である (注7) 。そして,世界市場の完成とは,ドラッカーにとって,ソ連の崩壊なのである (注8) 。
ソ連はやっと崩壊した。これによって,ドラッカーはヒトラーとスターリンという反共産主義的な悪夢からようやく解放された(なんと時間がかかったことだろう!)。ドラッカーは資本主義の──すなわちソ連共産主義の──正当化の危機の問題という不毛な議論ではなく,ようやく観念的共産主義論を夢想の中で展開し得るようになっている。これが偉大な思想家ドラッカー自身の主観的な現状である。
画期はドラッカーにとっての現実的世界においてはソ連崩壊であり,ドラッカーの著作においては『ポスト資本主義社会』である。もはやドラッカーは,死ぬまでの短い間,このような虚しい共産主義論を書き続けるしかないであろう。もはやドラッカーは死んだ。傍観者は死に,アジ演説家だけが残った。
ソ連崩壊がドラッカーに与えた衝撃は,それが“マルクス主義者”たちに与えた衝撃の比ではない。これによって,ようやく過去のアメリカをソ連と公然と同一視し得るようになったのだ (注9) 。最低・最悪の資本主義国が崩壊するということによって,ようやく資本主義アメリカを公然と断罪し得るようになったのだ。世界的に見ると,ドラッカーにとっては,資本主義ソ連の崩壊は直接的に資本主義アメリカの崩壊である。ソ連の崩壊によって,ようやくナチスが,すなわちアメリカが,一般的に言うと資本主義が崩壊した。ドラッカーにとっては,資本による世界市場の完成は,共産主義の約束(=ポスト資本主義社会,プロレタリア独裁の社会)と直接的に同一的である。ここでも,このような無媒介性(直接性)がドラッカーを特徴づけている。このようにして,悪夢は消え去ったのであるから,後は,必要であるのは,ただ理想の共産主義をアメリカの個別的な客観的事実の中に,しかし主観的に見出すということだけである。共産主義の萌芽はドラッカーという個性の主観によって発見されるべきものであり,当事者意識の変革はドラッカーという個性の主観によって成し遂げられるべきものである。
資本主義時代には,理論的にも実践的にも,マネジメントは一連の静態的な仮定の上に組み立てられていた。
一方のワンセットの仮定はマネジメントのディシプリンにある。──
- マネジメントはビジネスマネジメントである。
- 唯一の正しい組織構造が存在する──あるいは存在しなければならない。
- 人をマネージする唯一の正しい道が存在する──あるいは存在しなければならない。
他方のワンセットの仮定はマネジメントの実践にある。──
- テクノロジーと市場とエンドユーザーとは所与である。
- マネジメントの範囲は法律的に定義〔=限定〕されている
- マネジメントの照準は内部に当てられている。
- 企業とマネジメントとの「エコロジー」は,国境によって定義〔=限定〕されているものとしての経済である。〔第4頁,p.5〕
しかし,もはや資本主義時代は終焉し,プロレタリア独裁が事実的に実現されているのであるから,このような資本主義時代の仮定は総て放棄されなければならない。
一方では,資本の文明化作用によって,総ての組織(営利組織であろうと非営利組織であろうとも)がビジネス組織として,資本主義企業として,資本の自己形態として位置付けられている。これがプロレタリア独裁に委譲された資本主義社会の遺産である。だから,「マネジメントはありとあらゆる組織の特有的・区別的な機関である
」(第9頁,p.9)。他方では,第2章で見るように,プロレタリア独裁においては,もはや資本主義的企業は衰退するしかない。だから,マネジメントを資本主義的企業(営利企業)に限定する偏見はますます放棄されなければならない。
プロレタリア独裁においても,組織は所詮は資本の組織である。組織を形成するのは資本の機能であるから,資本機能の差異に応じて,いくらでも有機的に組織が改変されなければならない。そもそも組織(organization)とは有機的な(organic)ものであった。
ヒエラルヒー終焉論はナンセンスである。プロレタリア独裁においても組織は所詮は資本の機能的組織なのだから,ヒエラルヒーとパーティシペーションとの両者が必要なのである。だから,総ての組織は民主主義的な中央集権制である。しかし,マルクス主義者たちが夢想するのとは異なって,唯一の前衛政党が存在するわけではない。資本機能に応じて種を異にする複数前衛政党が存在するのである。
残念ながら,組織は所詮は資本の組織であるから,トップマネジメントの組織については,依然として個人崇拝が残存している。われわれはビルの会社を解体して,プロレタリアの自治組織に組織変更しなければならない。
次項で見るように,もはや社会的労働の組織は個別的資本の私的単位を超出してしまっている。しかも,プロレタリア独裁においては,プロレタリア前衛であるナリッジワーカーはもはや二重の意味で自由なのではない。彼らは,一方では真に(つまり実質的に)人格的に自由であり,他方ではナリッジという生産手段を所有している。だから,私的な個別的資本において資本の単なる実存形態として物象的に従属している労働者という構図は,プロレタリア独裁においては,過去のものになってしまった。人のマネジメントにおいて,階級支配はパートナーシップに取って代わらなければならない。
テクノロジー:社会的労働の組織は私的な個別的資本の制限を突破してしまった。製品が私的な個別的資本を単位にするのに対して,テクノロジーは社会的労働を単位にする。だから,私的な個別的資本は自社製品を開発するためのテクノロジーを外部に依存するしかない。
テクノロジーと市場・エンドユーザーとの不一致:社会的労働の展開に応じて社会的欲求も深化していく。しかも,社会的欲求を満たすべき社会的労働は,テクノロジーの発展を通じて,特定の社会的欲求を満たす多様なテクノロジーを展開した。つまり,社会的欲求と社会的労働とは一対一の関係にはもはやない。
市場・エンドユーザー:このような多様な社会的欲求と多様なテクノロジーとが交錯している場合には,もはや市場シェアを一社で独占するということは不可能である。エンドユーザーについても,私的な個別的資本は自社のカスタマーの外部に,非カスタマーに依存している。プロレタリア独裁において,ようやく独占が崩壊したのである。しかも,私的な個別的資本は,社会的欲求の圧倒的・不可抗力的な暴力の前に矮小な自己を反省しなければならない。もはや惨めな私的資本は,欲求の社会性に即して社会的になっているカスタマーに振り回されるしかない。プロレタリア独裁において,ようやく消費者主権が実現されたのである(資本主義時代には消費者主権は理念でしかなかった)。
資本は法律を制限(Schranke)として感じている。そして,資本は法律を突破する。個別的資本に即しては,既に株式会社が法律を突破していた。しかし,今では個別的資本の集団が法律を突破している。
ブルジョア時代には,系列化は最初は剥き出しの所有に基づく支配であった。やがては,それは所有に基づく支配に代わって,調達側の経済的な力関係に基づく支配になっていった。それはもはや所有に基づく支配,本来的な法律的支配ではなかったが,それでもやはり経済的な支配であった。
ところが,プロレタリア独裁においては,サプライチェーンマネジメントは対等なパートナーシップに基づいている。もはや,マネジメントは法律的に定義された私的資本を完全に乗り越えている。
資本は国家を制限として感じている。そして,資本は国家を突破する。
ブルジョア時代にも,社会的労働は世界市場の形成を通じて自己の有機性を実証していた。しかし,ブルジョア時代には,それを物象的に組織するべき企業の方は,なお私的形態に制約されてマルチナショナルという非有機的な形態を受け取っていた。社会的労働の有機的結合は,なお私的所有の非有機的結合という分断された形態でしか実現されていなかった。
ところが,プロレタリア独裁においては,企業は私的所有によってではなく,社会的労働によって結合されているといことが暴露されてしまっている。マルチナショナルとは異なってトランスナショナルにおいては,労働の世界的な有機的結合に明示的にも基づいているから,国家はもはやコストセンターでしかない。
組織の成果は組織の外部にしかない。マネジメントは成果を生み出すためのものである。それ故に,マネジメントの領域はアウトサイドにしかない。
否定の後には肯定が来る。第1章ではブルジョア時代の諸仮定の消極的否定が行われた。第2章では,プロレタリア独裁の諸仮定の積極的肯定が行われなければならない。とは言っても,プロレタリア時代は歴史的に未知の時代であるから,uncertanなことが多い。その中から,プロレタリア前衛はcertaintyを摘出しなければならない。もしcertaintyがなければ,プロレタリア前衛は狂信的な革命運動に邁進し得ないであろう。
先進諸国では,間違いなく高齢化が到来する。これはcertainだ。だが,プロレタリア前衛の機関である企業がそれに具体的にどのように対応しなければならないのかということは,全くuncertainである。だが,それほど心配する必要はない,アメリカでは既にプロレタリア独裁が実現されているのだ。プロレタリア前衛は「個人的な雇用者による──そしてそれだけではなく個人的な被雇用者による──実験の伝統
」(p.48)に基づいて困難を革命的に乗り越えるであろう。
これは当然のことであるが,プロレタリア独裁においては,資本主義的企業は残滓であって,やがては減少していくはずである。幸いにも,20世紀のブルジョア時代においても既に,最大の成長分野は政府・医療・教育・余暇であった。「これらの四つは,いずれも,「自由市場」にあるのではなく,経済学者の需給法則に従って振る舞うのではなく,特にプライスセンシティブではない。それらは,経済学者のモデルには全く馴染まないし,経済学者の諸理論に従っては全く振る舞わない
」(第59頁,p.52)。こうして,ようやく市場経済が死滅するはずである。
pension fund socialismにおいては,企業のパフォーマンスが新しく定義され直されなければならない。当然のことであるが,会社が株主のためにあるなどというブルジョア的な定義はもはや無意味である。もちろん,いまだに株主主権説を唱道する時代遅れもいる。だが,──心配しなくてもよい──,プロレタリア独裁アメリカにおいては,物神崇拝は消えつつあるのだから,そのような時代遅れが主流になりはしないであろう (注10) 。
プロレタリア独裁は世界的なシステムなので,プロレタリア前衛の機関である企業は世界を目指して頑張りましょう。それなのに何故か,世界を創るのは疎外されたリーダーなので,企業はリーダーを目指して頑張りましょう。所詮,自己は自己疎外を目指して頑張るものなのです。
プロレタリア独裁は世界的なシステムなので,各国政府は,所詮,田舎の地方自治体であるのに過ぎません。田舎の役所の田舎役人の誘惑に負けずに,革命運動に邁進しましょう。
本書でも個々の点では相変わらず鋭い問題提起を行ってはいる。このような問題提起はドラッカーならではのものであり,およそマルクス主義者には根本的に欠落している。言うまでもなく,個々の点についてのこのような問題提起を,われわれは批判的に受容し,理論的に位置付けなければならない。個々の点に即してのブルジョア社会危機論者──これが本書に対するわれわれの第一のアプローチである。
しかしまた,ドラッカーが個々の点で鋭い問題提起を行っているということに目を奪われて,現時点での彼の理論性格を見失ってはならない。既に,個々の問題ではなく理論全体については,ドラッカー理論は現状の徹底的な弁護論者なのである。嘗てドラッカーは資本主義社会の危機論者として現状の正当化の危機を論じた。今やドラッカーは資本主義社会の弁護論者として現状を正当化している。ドラッカーは既に退廃した。ドラッカーの根本的欠陥はあれやこれやの個別的な論点にあるのではない。正に,既に現状が──資本主義の枠内での未来社会への過渡期ではなく──資本主義から未来社会への過渡期であるという点,つまり彼のプロレタリア独裁の理論にある。現状がもはや経済人(economic man,実はエコノミックアニマル)の社会ではなく既にプロレタリア独裁の社会(ポスト資本主義社会)だと──もはやアニマル的な(非人格的な,物象的な)社会ではなく,既に人格的な社会だと──大嘘をついた時点で,要するに現在のシステムがプロレタリア独裁(ポスト資本主義社会)だと大嘘をついた時点で,資本がいま提供している総ての論点はドラッカーによって現状擁護のための論点にすり替えられているのである。現在のシステムはプロレタリア独裁だから擁護されるべきものなのである。現在のアメリカは社会主義祖国であるから擁護されるべきものなのである。彼に残されているのは,──アジ演説を別にすると,つまり理論的には──,システムの矛盾を隠蔽する──システムの矛盾の解決をシステムそのものの廃棄にではなく,個人(知識労働者)の個人的な努力と諸個人(知識労働者たち)の理性的合意とに任せる──ということだけである。理論全体に即してのブルジョア社会危機論者からブルジョア社会弁護論者への転回,すなわち正反対物への転回──これが本書に対するわれわれの第二のアプローチである。
しかしまた,退廃したドラッカーのこのような欠陥は,彼の理論がそもそも孕んでいたものである。こうして,退廃したドラッカーに対する批判は正当なドラッカーに対する批判にまで行き着かなければならない。ドラッカーを正当なドラッカーと退廃したドラッカーとに理論史的に二分するわれわれの態度──これは非常に有用であるが──もここで批判されなければならない。ドラッカーはそもそも退廃していたのである。生まれつき性根が腐り切っていたのである。危機論者ドラッカーなどという者はそもそもこの地球上にいなかったのであって,ドラッカーは最初から弁護論者なのである。危機論者から弁護論者への転回として理論史的に,歴史的に現れていたものは,実は弁護論者ドラッカー自身の内部での内面的な移行だったのである。ドラッカーはあるがままの姿に戻っただけなのである。弁護論者ドラッカー自身が危機論者としての弁護論者と,弁護論者としての弁護論者とに分裂しているのである。だから,“危機論が足りないからけしからん,ドラッカーならばこの論点を危機論として展開し得るはずだ。現状が既にプロレタリア独裁だと嘘をつくことで,ドラッカーは自己欺瞞に陥った”というわれわれの批判──これはまたこれで非常に有用であるが──も,やはりまた,子供じみた批判として,無い物ねだりの批判として批判されなければならない。一貫したブルジョア社会弁護論者としての自己実現──これが本書に対するわれわれの第三のアプローチである。
第一のアプローチについては,われわれはこれを内容要約のところで既に見た。第二のアプローチについては,われわれはこれを課題と構成のところで既に見た。第三のアプローチについても,われわれはこれを課題と構成のところで事実上,見ていた。しかし,そこでは,やはり転回の方に力点が置かれていたし,また一般的しか規定されていなかった。従って,われわれはここで第三のアプローチを本書に即して確認してみよう。その前に,よくある類の,マルクス主義者風のドラッカー批判からわれわれのドラッカー批判を区別するために,もう一度,ドラッカーの優れた点を確認しておこう。
幸いにもマルクス経済学者には現実的感覚が欠如したお方が多いから,あまり通常のマルクス経済学者がドラッカーに取り込まれるということはない。寧ろ通常のマルクス経済学者は,ドラッカーの理論を現代ブルジョア社会のコンテキストに位置付けずに,“資本家の手先”とかその類のお馴染みの批判を繰り返すのが常套手段であろう。ドラッカーに取り込まれてしまうのは,ただ三戸公 (注11) ,山口正之など,現実的な感覚と優秀な頭脳との両者に恵まれたごく一部のマルクス経済学者・経営学者のみである。
しかしながら,そもそもドラッカーの理論構造はいちいちマルクスからパクってきたとしか思えないものであり,しかもマルクス理論と決定的な対立を見せるのは非常に微妙な部分においてである。ドラッカー理論は,マルクス理論と決定的に対立するのであるが,しかしまた正に決定的な場面でしか決定的に対立しないのである。なにしろドラッカーは,独占価格だの独占体だの金融資本だのから出発する流通主義の輩とは全く異なって,個別的資本の直接的生産過程における労働する諸個人の振る舞いから出発して,一貫して私的労働の止揚,私的所有の止揚,世界市場の形成の過程として,現代資本主義論──従ってまた共産主義論──を展開しようとしているのだ。
だから,理論構造そのものに即しては,そもそもマルクスかぶれの連中は諸手を挙げてドラッカーに飛びついてもおかしくはないのである。そして,それを阻害してきた現実的感覚の欠如は,非常にしばしば,結局のところ社会主義祖国ソ連の実存 (注12) に基づいていたように思われる。だから,社会主義祖国ソ連の崩壊後に徐々にイデオロギー的な偏見を脱しつつあるマルクス主義者たちが,今後,ドラッカーに取り込まれてもおかしくはない。
それだけではない。多くのマルクス主義者が共産主義への展望を失っているこの時代に,ドラッカーこそは資本主義の中に共産主義を発見し,共産主義論として資本主義論を展開し,あまつさえ──個別的な主観的現実の中にではあるが──現実そのものの中に,しかもシステムの内部に,プロレタリア独裁とプロレタリア前衛とを発見してしまったのだ。
ドラッカーかぶれのマルクス主義者はこう言うであろう。──オーソドックスなマルクス主義の展望なき資本主義批判,根拠なき主体変革論,狼少年的な革命理論は勘弁願おう。未来社会は諸君の説教によって準備されるわけではない。そうではなく,現実社会の中で客観的に生まれてくるものなのだ。理論家に必要なのは,イデオロギーに拘泥するのではなく,現実に徹底的に拘泥し,現実そのものの中に未来社会の萌芽と,現代社会変革の契機とを見つけ出すことなのだ。主体もまた,君たちのくだらない宣伝によってではなく,資本自身によって生み出されるものなのだ。資本は自らの墓掘り人を生産するのだ。
ドラッカーかぶれのマルクス主義者はこう言うであろう。──オーソドックスなマルクス主義の外部革命論は勘弁願おう (注13) 。ナリッジワーカーというプロレタリア前衛が前衛的な変革主体であるのは,決してシステムの外部で物象化から逃れているからではなく,逆にシステムの内部で──しかもシステムの中枢において──システムを産出しているからなのである。システムを生産していないものに,どうしてシステムの変革が可能だと言うのか。言ってみると,君たちのマルクス主義理論が共産主義外部注入論であり,その現在的な破綻形態が単なる(無謀な)資本主義批判──展望なき資本主義批判──であるのに対して,ドラッカー理論は共産主義内発的発展論なのである。一体どちらが優れているのか,いまさら言うまでもない。
ドラッカーかぶれのマルクス主義者はこう言うであろう。──オーソドックスなマルクス主義の社民的な改良主義論は勘弁願おう。ドラッカーは決して,単純商品流通の諸表象と資本主義的生産の現実性との矛盾を見逃していない。全く逆である。マルクス主義者たちがマルクスに徹底的に敵対していった正にその時に,実に忠実にマルクスの図式に従って,一貫して資本主義社会の体制的危機を研究していたのはドラッカーその人であった。そして遂に突破点を見付け出したのだ。スターリン主義の全般的危機論は実は資本主義永遠化論であった。これに対して,ドラッカーの危機論こそは資本止揚論であった。スターリン主義が主張した資本主義の全般的危機は実は資本主義の全般的安定でしかなかった。つまり,スターリンと社民とが──何人ラーゲリでブチ殺しても屁とも思わないとか,そういう実践場面上あるいは市民感覚上では大いに対立するものの──実は理論的には双子の兄弟だったのに対して,ドラッカーこそは真の革命主義者なのだ。
ドラッカーかぶれのマルクス主義論はこう言うであろう。──オーソドックスなマルクス主義の流通主義論,独占段階論,労働論なき現代資本主義論はご勘弁願おう。ドラッカーには,個別的資本の内部での直接的生産過程の理論がある。彼には社会的労働過程論としてのorganization theoryがあり,それどころか個人的労働過程論としてのwork theoryさえある。そこを出発点にして,そこから一貫して,ドラッカーは現代資本主義論を構築しているのだ。労働から──システム産出の根拠から──出発しない君たちの現代資本主義論になんの魅力があろうか。
以上,われわれはドラッカーの肯定的な面を見てきた。ドラッカーはどれほど落ちぶれてもやはり希有の偉大な社会思想家である。まさにこの故にこそ,ドラッカーは徹底的に批判されなければならない。ドラッカーこそは未来社会の実現にとって不倶戴天の敵である。ドラッカーは未来社会実現の実践上でのユダであり,偽予言者である。
個別的な点でドラッカーの無知・誤謬を指摘するのは──もちろん重要であるし──容易である。それは,個別的な点でドラッカーのマルクスとの類似点を指摘するのが用意であるのと同じくらいに容易である。しかし,そのような無知・誤謬の指摘はドラッカー理論そのものをも,それが齎す進歩主義的・近代主義的・客観主義的な社会的実践をも叩き潰すにはいたらない。ドラッカー批判はドラッカーの理論の根幹においてなされなければならない。
ドラッカーの労働把握の嘘デタラメについては,われわれは本書においてやがてこれを見るであろう。ここでは,ドラッカーの資本把握 (注14) の嘘デタラメを,われわれは確認しておこう。ここでもやはり,ドラッカーは分裂している二項を正しく把握し,しかしこの分裂を固定するのである。
ドラッカーにとって,資本はreal capitalとmonied capitalとに完全に分裂したままである。real capital(組織としての資本)とmonied capital(国際通貨としての資本)とは全く無媒介的である。何故ならば,ドラッカーは,real capitalについてはこれを単に組織として把握しているのに過ぎず,またmonied capitalとしての資本についてはこれを単に貨幣として把握しているのに過ぎないからである。両者を統一するべきであるmanagementは,しかしやはり結局のところ個別的資本のmanagementであるから,どうしても両者を統一し得ないのである。個別的資本のmanagementにとって,国際通貨は天候のような外部的条件であり,せいぜい慎重な対策を練るくらいのことしかなし得ない。
先ず第一に,組織としての資本について。ドラッカーにとっては,理論的には資本──文明化作用を行うもの──は組織としてしか実存してはならないはずであった。だから,ドラッカーにとっては搾取も労働疎外も組織と労働する諸個人との対立でしかない。当事者が直接的に措定する敵対的存立という点で,組織は資本としての資本である。ドラッカー体系においては,そもそも社会を変革するべきであったのは,理論的には,組織としての資本であるはずであった。組織としての資本は,どれほど個人から疎外されていようとも,それでもやはり個人の組織であるから,組織変革こそは個人変革でもあるはずであった。すなわち,組織の内部において当事者が変革されるはずであった。ところが,実践的には,組織としての資本は社会を変革しなかった。
そして,その組織は物象的な労働組織ではなく,(敵対的であってもやはり)人格的な組織──アソシエーツの組織──である。しかし,このアソシエーツの組織が個別的なアソシエーツに対して敵対的に聳え立っている。人格自身に人格と非人格(物象)との両面がある。知識労働者(の人格)と(物象的)組織とは根本的に分裂している。知識労働者は組織ではなく,組織は知識労働者ではない。知識労働者が生産手段を所有しているのだが,しかし知識労働者の成果は組織によって取得される。両者は全く分裂している。アソシエーツの活動と組織の活動とは全く無関係である。人格に即して言うと,人格的な組織形成と物象的な成果形成とは全く無関係である。組織を形成しているのはアソシエーツであるのにも拘わらず,組織の成果(=利潤)は組織の外部にある。アソシエーツという人格が自覚的・人格的に組織を形成したはずなのだが,この組織は人格(個別的な当事者)の方を向かずに社会(組織と組織との関係)の方を向いている。逆に,知識労働者は完全に自由な人格として(生産手段の所有者,且つ実質的自由の享受者として)組織に依存してはならない。物象的組織は,今では,──人格のものであるという意味で物象であるのではなく──,人格とは無関係だという意味で物象である。本来は,両者を敵対的に統一するべきであるのは労働であるはずである。しかし(物象的)組織の形成者としては知識労働者はアソシエーツ(人格)であるから,両者の敵対的統一は無関係なものの関係であり,つまりは直接的な統一,無理やりの統一である。分裂の裏面が直接的統一なのである。だから,そもそもドラッカーの議論が徹底されるならば,出口は個別的資本の内部にはないはずなのである。本書ではドラッカーはなんとか隠蔽しようとしているが,知識社会と組織社会とは徹底的に矛盾している。しかし,この矛盾はドラッカー理論に即しては単純な,固定的な分裂である。組織の変革と当事者の変革とは無関係である。実際にまた,ドラッカーの逃げ道になるのは,常に,組織そのものではなく,個別的営利組織とは全く無媒介に現出しているような,そして個別的営利組織の外部に実存するような諸形態──pension fund,NPO,健全国家,善き公民──である。それでは,一体にどうするのか。
次に第二に,通貨としての資本について。組織の外部から,組織とは無媒介的に,何か得体が知れない貨幣が突如として現出してくる。正に無自覚的・非当事者的・非人格的・物象的であるという点で,貨幣は資本としての資本である。すなわち,労働する諸個人によっては全く制御不可能であるという点で,資本としての資本である。しかし,ドラッカー体系において,社会を徹底的に変革したのは,実際には,貨幣なのである。つまり,ドラッカーが通貨として把握しているところのものは,実はpension fundと同一のものである。ところがまた,貨幣による変革は,当事者の──組織の──外部からの変革であって,当事者の変革では決してない。
ドラッカーの場合には,real capitalによる社会変革(直接的には私的労働の止揚)とmonied capitalによる社会変革(直接的には私的所有の止揚)とが全く分離してしまっている。だからこそ,monied capitalによる社会変革はreal capitalによる社会変革とは全く無関係に資本主義社会を止揚してしまったのである。このように,ドラッカーはreal capitalとmonied capitalとが全く分離してしまったという現実から正当に出発し,しかし旅をせずにそこに終着する。
引用和文中の傍点での強調は著者自身,下線での強調は今井による。同様にまた,但し書きがない限りでは,引用欧文中のitalicでの強調は著者自身,boldでの強調は今井による。
文中での引用と参照指示とで書名・論文名が省略されてページ数だけが書かれている場合には,それは『明日を支配するもの』からの引用である。また,その場合には,ページ数の“第[n]頁”はドラッカー(1999)のページを,“p.[n]”はDrucker (1999)のページを指示している。
(注1) ここで「主観的」と言うのは,ドラッカーが展開している社会変革は,労働する諸個人の主観の中での革命ではなく,ドラッカーの主観の中での革命であるからである。労働する諸個人の主観の中での革命については,寧ろ,ドラッカーはいわゆる俗流“唯物史観”の狂信的な信奉者である。だからこそ,革命は単に客観主義的に──すなわち無自覚的に──既に生じてしまっているのである。
(注2) 「暴力的に」と言うのは,ここでは,もちろん,“物理的暴力を用いて”という意味ではなく,「直接的に」ということの言い換えである。形式的に結合され得ないもの(ただ有機的にのみ結合され得るもの)を,無理やりに,形式的に結合してしまう態度を,それは形容している。
(注3)
例えば,ドラッカーは「けれども,知識ある人々〔=知識労働者たち〕は,資本主義の下での被雇用者たちとは異なって,「生産手段〔means of production〕」をも「生産用具〔tools of production〕」をも所有する〔own〕であろう。すなわち,彼らが生産手段を所有するのは,自分の年金基金を通じてである〔……〕。彼らが生産用具を所有するのは,知識労働者たちが自分自身の知識を所有しており,しかもこの知識を自分の体ごとどこにでも持っていき得るからである
」(ドラッカー(1993,第32頁),Drucker (1993), p.8)と述べている。ここでは,年金基金と知識労働とが結合されているのだが,しかし,年金基金は知識労働から直接的に派生するものでは決してなく,実際にまた年金基金をつうじて「生産手段を所有する」のは知識労働者に限らず,総ての年金加入者である。要するに,ドラッカーは,年金基金と知識労働(者)という,二項をなす既存のものの外面的・表面的・直接的・相互的な関連に留まるのである。一方で年金基金が現存してるのは疑いようもない事実であり,他方で知識労働者が現存しているのも疑いようもない事実であり,ドラッカーはこの既存の事実を形式的・外面的に接着させただけなのである。結局のところ,ドラッカーにとって,総ての関連はこのような外的な関連でしかない。
(注4) 何度も強調しておくが,私的所有の止揚を直接的生産過程の外部に固定するのは,現代社会自身が分裂的に齎す──そしてドラッカーがしがみつく──表象である。私自身は,私的労働の止揚を直接的生産過程の内部での革命に,また私的所有の止揚を直接的生産過程の外部での革命に固定的に割り当てているのでは決してない。
(注5) やや解りにくいかもしれないが,これはいわゆる共産主義革命──『共産党宣言』で言及されているような──のことである。要するに,一言で言うと,ドラッカーの場合には,共産主義革命がなくしてプロレタリア独裁が達成されてしまっているのである。共産主義革命を考える際に決定的に重要であるのは,この自覚化の問題なのであって,決して議会主義がどうとか物理的暴力がどうとかというような手段の問題──もちろんその議論が無意味だとは言わないが──ではない。
(注6)
「しかしながら,イデオロギーとしてのマルクス主義とシステムとしての共産主義とが崩壊するのとともに初めて,われわれが既に新しい,そして異なる社会に入り込んでいるということが完全に明らかになったのである。その時に初めて,本書のような書物──予言しているのではなく,模写しているような書物,未来を夢見る〔futuristic=未来派的な〕のではなく,いまここで行動を求めるような書物──が可能になったのである
」(ドラッカー(1993),第30頁;Drucker (1993), p.7)。「「ポスト」という名が付いたものには永久に続くものはないし,長く続くものさえない。われわれの時代は過渡期〔=移行期〕である。未来社会がわれわれが望んでやまない「知識社会」に実際になるのかどうかということはもちろんのこと,未来社会がどのような姿になるのかということも,先進諸国が──その知的リーダーたち,ビジネスリーダーたち,政治的リーダーたちが,そして何よりもわれわれ一人ひとりがわれわれ自身の仕事と生活とにおいて──ポスト資本主義期というこの過渡期〔=移行期〕の課題にどのように応えていくのかということにかかっている。けれども,今こそは未来をつくる時であるということは確かだ。何故ならば,正に,総てのものが流動的〔in flux〕であるからである。今こそは行動する時である
」(同上,第45頁;ibid., p.16)。
(注7) 言うまでもなく,疎外の完成諸形態はそっくりそのまま(so vielに=同じ数だけ)未来社会の始原諸形態に転回する。しかし,それは転回する──判りやすく言うと革命を経て,新たにそのようなものになる──のであって,疎外の完成形態がそれ自体として未来社会の始原形態であるのではない。疎外の完成形態は未来社会の始原形態“である”のではなく,未来社会の始原形態“になる”のである。
(注8)
「しかしながら,イデオロギーとしてのマルクス主義とシステムとしての共産主義とが崩壊するのとともに初めて,われわれが既に新しい,そして異なる社会に入り込んでいるということが完全に明らかになったのである
」(ドラッカー(1993),第30頁;Drucker (1993), p.7)。既に見たように,「完全に明らかになった〔did [...] become completely clear〕
」のは(当事者意識にとってではなく)ドラッカーという(第三者的・傍観者的・学知的な意識であるかのように振る舞っていた)個性にとってである。ドラッカーという個性にとって,予言が現実化したということは,システムそのものが移行したということを意味する。
なお,ここで私がソ連の崩壊と呼んでいるのは,ドラッカーに即して言うと,1989年のベルリンの壁の崩壊のことである。この時点で,既に“もう一つの世界”──未来社会であろうと悪の帝国であろうとも──としてのソ連は崩壊していたのである。
なお,ドラッカーは世界の完成として,1989年のベルリンの壁崩壊に加えて,1990年の湾岸戦争を挙げている。何故ならば,ベルリンの壁崩壊において既に存在として即自的に現れていた完成世界が,湾岸戦争での戦争協力において運動として対自的にも現れるようになったからである。
(注9) もちろん,このことは,ドラッカーが処女作に向かって進んだということを意味している。そもそもドラッカーにとっては,アメリカ資本主義あるいはソ連共産主義はエコノミックアニマル的前提において全く同一的であった。
(注10) そもそも株式会社における権力正当性の危機の理論を提示したのはドラッカーであった。その鋭い問題意識ゆえに,われわれはドラッカーに敬意を払った。ところが,ここでは,危機論は基本的に消滅してしまっている。ここに,われわれは,彼のプロレタリア独裁論の罠を見る。彼にとっては,既にプロレタリア独裁が成立しているのであるから,もはや危機論は不用なのである。
(注11)
三戸は次のように述べている。──「ドラッカーと同じく人間の尊厳を,個人の自由を規範としたマルクスが今生きていたら,現在のマルキストよりドラッカーの方により多くの共感をもつに違いない
」(三戸(1979),第ii頁)。「マルキスト
」は別にして,マルクスはドラッカーを徹底的に批判していたのに違いない!
(注12) ここで,社会主義祖国の現実性というのは,もちろん,現存社会主義が成功しているという確信を意味するのでは決してない。そうではなく,それは正に“社会主義”なるものが現存しているという確信である。つまり,未来社会が──たとえどれほど粗野,野蛮,幼稚であり,その“生成期”にしかなく,歪んでいるとしても──目の前に(理念ではなく)生身の国家の形態で現存しているという確信である。それはもはや社会主義は理想ではなく,現実であるという確信である。多くの者にとっては,この確信があったからこそ,現代資本主義国は未来社会に移行するべきものであったのだ。ドラッカーが現代社会の中に生身の未来社会を確信したのと全く同様に,社会主義者たちは社会主義祖国の中に生身の未来社会を確信し得たのである。後者の立場から見ると,前者の立場は無根拠に対立する理論,単なるブルジョア的な幻想として現れるしかない。前者の幻想に対する後者の幻想による批判には,理論的な批判は不要なのである。こうして,ドラッカーに対する批判は,イデオロギー的に,政治的に,非理論的に,一言で“それはブルジョアイデオロギーである”と言うことで済んだのである。
(注13) 外部性にはいろいろなものがあるが,例えば変革主体に着目してみよう。そうすると,労働者階級こそが(徹底的に搾取されているということによって)物神崇拝から逃れているということが最大の外部性であろう。ここでは,実は,労働者が外部性に割り当てられるのだ。しかしまた,労働者が物象化に囚われているということは疑いようもない事実であるから,今度は労働者階級の中に外部性を見出さなければらならい。ここで,無限の細分化が始まる。例えば,中小企業の労働者が大企業の労働者よりもシステムから排除されているということは疑いようもない事実であるから,今度は中小企業の労働者(あるいは自営業者・農民)に外部性を割り当てる。しかしまた,或る種の中小企業の労働者は大企業の労働者以上に前近代的な意識を持っているということも疑いようもない事実であるから,今度はルンペンに外部性を割り当てる。あるいは,例えば,女性労働者が男性労働者よりもシステムから排除されているということは疑いようもない事実であるから,今度は女性労働者に外部性を割り当てる。しかしまた,或る種の女性労働者は男性以上に猛烈に会社のために働くということも疑いようもない事実であるから,今度は専業主婦に外部性を割り当てる。──これは非常に戯画的な例示であるが,基本的には外部性の追求には終わりがない。
(注14) ここで言う「労働」,「資本」とは,もちろん,われわれが把握している「労働」,「資本」のことである。従って,ドラッカーが「労働」,「資本」という名辞を用いているのかどうかということは全くどうでもいいことである。問題はわれわれが把握している「労働」,「資本」をどのようにドラッカーが把握しているのかということ──これだけである。