日時 | 2000年05月28日 |
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場所 | 立教大学 |
テーマ | 『環境経済学への招待』 |
範囲 | 第3,4章 |
報告 | 浅川 雅巳 |
本書の場合、諸章は比較的独立性の強いものとなっている。特に3章以降の、具体的問題を扱う諸章の関係は独立的である。だから、全体におけるこの2つの章の位置付けについて得に云々する必要はないであろう。
次に、それぞれの章の構成を見る。
第3章は、第1節で一般廃棄物、第2節で産業廃棄物を扱っている。第1節では、一般廃棄物をめぐる問題の現れ方、その本質的意味、解決の在りよう、という順で考察が進められる。第2節は特に項目立ては行われず、問題点が順に取りあげられるようになっている。最後に、産廃デポジット制の提起(といえるほど具体的なものではないが)がなされる。
第4章は、最初の節では、まず、政治的利害と自然科学的認識の齟齬を指摘し、次いで、政治的利害のうち特に国際的な利害対立に触れている。第2の節では、の削減可能性を正確に予測し、削減可能性を高めるにはどうしたらよいか、CO2削減に対する途上国と先進国の責任の違い、対策を進める際の留意点が、順に述べられる。
一般廃棄物が迎えている二重の転機…大量廃棄社会から循環型社会へ/循環型社会の担い手問題(役割分担)[廃棄物処理をめぐる社会的責任の所在]。
リサイクルの基本…廃棄物の中に資源性を見出し、これを集めゴミを減らす。
経済性の壁…逆有償の発生 (注1) 。その深刻化の原因は、費用負担のルールが不明確であること。
壁の突破…リサイクル・廃棄物をめぐる費用と便益の正当な認識とそこで得られた知見の情報として共有化。
日本のシステムの難点…処理費用中最も重い収集費用は租税でまかなうため、製造者に廃棄物縮減へのインセンティヴを持たせにくい。資源浪費と廃棄物量の増大を食い止められない「大量廃棄・大量リサイクル」に陥る可能性が大きい。
リサイクル進展の条件…資源としての競争力の確保。収集コストの削減。
今後の課題…技術の開発と社会的システムの整備の並行的推進、公共政策と市場の活用の併用。
ゴミ有料化の意義…行政経費調達とゴミ削減
ゴミ有料化のゴミ削減効果の見極め…減量化の原因・理由・プロセスを把握すること。
産廃処分場…安定、管理、遮断型の3種類。
安定型処分場の問題点…従来安定型での処分が認められていたものの中に有害なものが発見されてきている。安定型は、他の処理場よりコストが低いため不適正処理を誘発する。安定型は理方法として採用すべきでないかもしれない。
不法投棄・不法処分の原因・動機…経済的動機に基づく理由が大半である。私的費用の節減が社会的費用・社会的損失を生み出している。
処理責任を排出事業者に帰すること…理念としては正しい。現実においては排出事業者処理費用を削減しようとするために逆淘汰が発生し、必要な費用かけて適正処理を行う処理業者が駆逐され、不適性処理を行う業者が生き残る。
最も基本的なこと…「リサイクルや適正処理が確保されてはじめて生産は完結するのだ」というふうに生産の概念を変えることである。分散国土計画の推進も探求すべきだ。
排出事業者の責任を実行させるために…適切な法ルールと行政システムが必要である。そこで1977年に廃棄物処理法が改正された。
改正ポイントの一つ、不法投棄対策について…処理施設と廃棄物行政への不信の原因は、不法投棄・不適性処理の多さと原状回復制度の未確立である。不法投棄は産業活動に伴って一定比率発生するのだから、原状回復費用の負担は産業界全体に求めるべきであるという議論がある。しかし、適正処理をしている事業者が、不適性処理をしている事業者が負担すべき原状回復費用を負担するの公正ではない。デポジット制は、この問題を解決する一つの方法である。この制度の唯一の難点は、適正処理の確認・証明のコストである。
地球温暖化問題は科学と政治が直結した問題だということができる。しかし、そのことが直ちに、地球温暖化対策を考える政治過程において科学的知見が尊重されることを意味するわけではない。
途上国…小島嶼国連合は、2005までに今より20%削減という目標を提案した。温暖化の被害は排出が少ない貧困国に偏る。温暖化問題は、先進国が原因を作り途上国が相対的に大きな被害を受けるという構図になっている。途上国の基本スタンスは、温暖化の責任は先進国にあり、途上国に対策を求めるなら資金援助をすべきというものである。途上国内でも産油国は、温暖化対策が石油輸出の不振につながることを恐れ特別な配慮を求めている。
先進国…EUは推進派。2010年までに1990年に比べ15%削減との提案を行う。アメリカ、オーストラリアは消極的。アメリカは、成果の排出量の20%以上を排出しているが、抵抗が強い。オーストラリアの事情は産油国に近い。
京都会議の課題…諸国家の利害が錯綜する中で、国益の調整という、従来の枠組みを超えた地球環境保全の原理を構築できるのか。
CO2の削減可能性の試算結果は、採用された分析モデルと想定されているシナリオ次第で大きく違ってくる。シナリオ設定の意義は、試算結果を得ることだけでなく、各主体に努力の内容や犠牲の大きさに応じて削減可能性がどう変わるかを知らしめるということにもある。シナリオの設定を通じて、ライフスタイルや技術の導入についての比較検討を詳細に行うことが、各主体の参加を促す上でも重要である。
先進国は途上国以上に削減努力を行うべきであり、また途上国のために、温室効果ガスを増加させないような発展(開発)モデルの構築に努めるべきである。
市場メカニズムの活用…例えば炭素税の導入。炭素税に限らず環境税の導入は、税制や行政システムの全体を環境保全型に換えるにはどうしたらよいかという問題である。
企業の自主的取り組み…取り組みの水準が客観的に見て十分なものなのか、実行の保証があるのかが問題である。
市場メカニズム利用以外の対策…エネルギー政策、交通政策、街づくりなど公共政策は、計画的に進められるべきである。エネルギー政策は産業政策として国が進めてきたが、今後は、生活政策、地域開発政策として地域が責任を持つべきである。自治体による環境保全の取り組みは、CO2削減や環境保全のための公共投資促進を意味する。景気対策として公共投資が必要ならば、環境保全のための投資を優先すべきである。
「循環型社会とは、もともと自然と人間との間にあった循環・代謝の関係の現代的に再生する社会」(66ページ)であると筆者は言う。人間の場合、自然との物質代謝は労働を通して行われるのだから、循環型社会の担い手は労働者である。日常的、「資本家」的表象における「生産者・製造者」とは、商品供給者のことでしかない。生産者の責任を問うことの意味は、供給者にも処理費用を負担させようということに止まるものではなく、責任追及を通じて、筆者の言う代謝の関係の最も本源的な場面である、生産過程変革の必要性を明らかにすることが重要である。
この点は、ゴミ処理の有料化についても同じである。使用済みの製品からどんなゴミがどれだけ出るかは、使用者の使い方次第の面もあるが、その使い方は、製品の属性に規定されていて、この属性は生産過程で創り出されるのである。だから、ゴミの発生は、基本的には生産によって規定されているのである。ところが従来は、ゴミのゴミとしての顕在化は、生産過程の外で起きるために、「製造者」はゴミ処理の責任をほとんど負うことがなかった。ゴミ処理の責任は使用者たる「消費者」が負うべきものとされたのである。だが、実際は「消費者」もこの責任を直接担うことはなかった。処理は自治体など公共機関の手に委ねられた。これは結局、租税でまかなうことであるから、「消費者」は負担を免れたのではなく、自覚しないまま負担を負ってきたのである。ゴミ処理有料化によって「消費者」の負担が明確になれば、「製造者」から「消費者」への最初の転嫁を顕在化させることも可能となる。但し、これを確実に行うためには、どんな商品がどれだけの処理費用を生むのかの情報が提供される必要がある。このような情報提供制度の整備と「消費者の選択権」の保証と強化によって、市場における商品選択を通じて生産過程にある程度の影響を及ぼすことが可能になる。しかし、「消費者の選択権」の拡大は、限界へ突き当たる。人体や自然への影響を左右する使用価値よりも、価値が優先される資本主義的生産それ自体が「選択肢」を制限する。生産過程の変革の必要性が次第に明らかになる。
とはいえ、ゴミ収集有料化は、市場における逆有償発生とほぼ同じ意味を持ち、ゴミはリサイクル・ルートを外れやすくなる。私的費用の回避が社会的費用を生む事実についての啓発、製造者の責任の明確化などが必要となる。
リサイクルの経済性を確保するために必要な条件でありながら、本書ではあまりはっきり指摘されていない点を一つ。ヴァージン・マテリアルの規制がないと再生資源価格は低下しがちとなり、つまりは逆有償が置きやすい。
言わずもがなかもしれないが、温暖化問題における対立の構図は、国家間対立としてより、生活条件、社会的立場をことにするもの同士の対立と捉えるべきだろう。アメリカ産業界は総じてこの問題への取り組みに消極的だが、生命保険業界はまったく正反対の態度を取っている。正確でない部分もあるかもしれないが、レポーターの記憶では、環境NGOの活動家か、顧問弁護士かと契約を結び京都会議へロビイストとして送り込んでいたようである。
4章2節の第三項目で、筆者は、産業政策は国、生活政策は自治体と考えているようなふしがあるが、もしそうであるなら、これには根拠がないのではないだろうか。
また全体を通じて、ライフスタイルの転換は、「生活者」一人一人の努力で実現すべきものという考え方に対する筆者の姿勢は明確ではない。このような考え方は完全に間違っているわけではないが、ライフスタイルが生産様式・生産関係に規定されている事実を見ないならば無力である。