本文
今井さん、ismのみなさん、神山です。
今井さん、またまた長文のご投稿感謝いたします。
> >一方では社会を形成する一般的な実践的主体(相互的承認において
> >他の人格を承認することができる個人)であり,他方では自分で責任を負うこ
> >とができる個別的な自覚的個体性(意志と意識とを持ち自ら責任を負って自立
> >的・独立的に行為することができる個人)であるからです。そのようなものと
> >して承認されていようといまいとも……。商品所持者は,相互的に承認される
> >前から,交換過程ではそのように振る舞っているのではないでしょうか? そ
> >もそも交換過程で相互的に承認し合うことができるということ自体,自由な社
> >会形成主体であるということを明示していると考えたわけです(赤ん坊は人間
> >ですが,人格として交換過程で相互的に承認し合うことはできません)。
>
> と回答したわけです。で,これに対して,神山さんが,“今井が言う「個別的
> な自覚的個体性」かつ「一般的な実践的主体」というのは俺(=神山さん)が
> 言う「自由な自己意識」と近い”とおっしゃったわけです。
> ところが,俺の場合には相互的承認を行うべき主体が既に「個別的な自覚的
> 個体性」かつ「一般的な実践的主体」であるのに対して,神山さんの場合には
> 「自由な自己意識」は相互的承認によって初めて発生する──相互的承認の以
> 前には人間は自由な自己意識ではない──はずなのです。われわれの間で,こ
> こが決定的に違うはずなのです。何故ならば,神山さんは「〔一般的に,〕人
> 格とは、自由な自己意識ということ」とおっしゃっており,そして,もし相互
> 的承認に先行して商品所持者が「自由な自己意識」であるならば,商品所持者
> は交換過程に入り込む(eingehen)時点で人格(当然にここでは商品の人格化
> としての人格以外にはあり得ないはずです)であるという結論になってしま
> い,これは神山さんが受け入れられない結論だからなのです。
わかりました。
「自由な自己意識」=人格、という表現がややこしくなった原因かもし
れませんね。自由な自己意識性が労働そのものの内的在り方なら、人格が
先にある、ことになりますね。(ただそうとっても、それも、労働におい
ては、疎外されそれは否定されていますが)。
ここでは、今井さんとの対比からして、個別の意識性に対して、それを
媒介する、産出された対他的な社会的意思を介した規定を、人格とする、
というように限定、強調しておくのが、有益な整理になるでしょう。
労働⇒社会関係⇒個々の意識性。
一般的にこういえるとおもいます。これを敷衍して、自由な自己意識性
を担保する、社会関係は、諸主体が孤立しあい、関係を物象化している私
的生産の関係である、これが人格である、とすれば、今井説になると思わ
れます。
相互承認以前の、「交換過程にeingehen」する、孤立的な人間の「事実
的」な振舞い、ここに物象の人格化、自由な人格性がある。これが(私の
読込んだ)今井説。承認以前の事実上の人間の恣意(=「自由」)を、法
的人格に先立つ人格とする。
これに対して、神山説は、人格に、承認性を不可欠に考えてみている。
こんなかんじです。
>
> >人格だから、相互承認できる、というのが今井さんで、商品の行動とし
> >て自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格、ゆ
> >えに、というのが私です
>
> これに対して,俺は,“[ism-study.28] A Confirmation About Person”
> (1999/08/04 23:26)の中で,──
>
> >(2)もしそうならば──これは(1)の解答
> >がyesである場合にのみ生じる質問です──,「商品の行動として自己の行動
> >をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格」は人格的な振る舞い
> >だと思うのですが,商品所持者は,交換過程にeingehenした瞬間には,まだ
> >「商品の行動として自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意
> >識的性格」を持っていないのですよね?
>
> と質問しました。この質問に対して,神山さんは,“[ism-study.30] Re: A
> Confirmation About Person”(1999/08/05 12:21)の中で,──
>
> >もっている考えます。
>
> と答えています。
> 申し訳ありません。ちょっと俺の方に誤解があったようです。と言うか,俺
> の理論構造に引きつけて神山さんの主張を理解しようとしてしまったようで
> す。そうだとすると,神山さんの場合には,(a)「商品の行動として自己の行
> 動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格」は,少なくともそ
> れだけでは(つまり相互的承認を経ないと),人格的な振る舞い(人格の振る
> 舞い)ではないのか,さもなければ(b)商品所持者は交換過程に入り込む
> (eingehen)時点で(つまり相互的承認に先行して),人格として振る舞って
> いるが,まだ商品の人格化ではないのか,このいずれかだと思います。恐ら
> く,神山さんが(b)のように考えているわけはないと思いますから,(a)のよう
> に考えているのでしょう。そういうことですよね?
そうです。この自己を自己として、この物を自己の物として、行動する
のは、「人間」の契機であり、もちろんそれは、対他的関係を予定してお
り、完結しないわけですが、承認に相関した規定が「人格」である、こう
私は、かんがえてみているわけです。
>
> >人間−物の意識構造、私的所有と
> >して区切られる空間の内面構造を、当然維持したまま、交換に入るわけで
> >す。
>
> これは俺にもよく解るのですが,人間と物とのクローズドな領域での話であ
> って──もちろん俺が“[ism-study.20] Re^4: On the "Person" etc .(1)
> ”(1999/08/03 12:21)で強調しているように,オープンな交換過程において
> もクローズドな領域の中ではこの構造が持続するのですが──,いずれにせ
> よ,対他的な振る舞いではないと思うのですが,いかがでしょうか?
そのとおりですね。
> 俺の場
> 合にも,何度も強調しているように,商品の人格化は交換過程というオープン
> な領域で(但し相互的承認に先行して)発生するわけです。
今井さんも、人格は「オープン」に対他的にかんがえている点、確認で
きました。
ただそれは、相互承認に先行する、関係行為なわけですね。
「結局、相互承認する1つの『交換過程というオープンな領域』なのだ
から、相互承認に先行する人間の振舞いを取出す意味はないのでは」とは
かんがえないわけですね。「結局、対面して相手に反射して、人格である
ことをみとめあうのだから、ここで人格の後先は重要ではない」とは考え
ないことになるのですね。会うべき他人を想定している時点(交換の相手
を探す)で、人格としての能動性があるわけですね。
いわずもがなですが。もちろん、「相互承認」とは、即、商談をまとめ
ること、ではありません。発展した法体系を前提して、「商談が失敗した
」「だから、相互承認しなかった」というレベルの相互承認ではありませ
ん。自由な交換主体として、原始接触して、交換を媒介することです。(
もしかしたら、これは説明不足で混乱のもとになるかも)。
> 奥村さんの『株主総会』第1,2章についての俺のレジュメの図6をご覧いた
> だきたいのですが,俺は,人格化は認識的転倒としての物神崇拝を前提して成
> 立する現実的転倒だと考えています。当然に,物神崇拝が認識的転倒であると
> いう点,物神崇拝が人格化に先行する(逆に言うと人格化は物神崇拝を前提す
> る)という点には,神山さんもご了解いただけると思います[*1]。
>
>
> その上で,もし敢えて“ひょっとするとここに問題意識の違いがあるのかな
> ぁ”という点を挙げるならば,俺はどうしても物象の人格化は人格の物象化と
> 同様に現実的な転倒である[*1]ということを強調したいのですね。恐らく物象
> の人格化が現実的な転倒であるということ,相互的承認にしても頭の中で“こ
> いつは正当な私的所有者なんだ”と考えるだけではなく,そう考えた上で──
> そう考えるということを根拠にして──現実的に振る舞う(自由・平等な私的
> 所有者に対する仕方で相互的に振る舞う──つまり,ドロボーしない,ぶんな
> ぐらない)ということを強調したいのです。(これについても,神山さんと俺
> との間で違いがあるとは思えないのですが,ここをどうしても強調しなければ
> ならないという問題意識に違いがあるのかもしれません)。これによって,物
> 象化と人格化との矛盾,そしてそれを通じて物象化と物神崇拝との矛盾を考え
> ていきたいと思っているわけです。
物神崇拝という当事者の知的受容を契機としつつ、物象の人格化が貫く
と私は考えます。自由な主観性は、現実世界・対象に存立するのであって
、対象は、単なる、知に対応した隠蔽構造ではない。これはいわゆる「物
象化論」の批判の軸だとおもいます。
あるいは、いいかえれば、対象世界は、人格に対応した、人格を含まな
い世界ではない、と。
労働する人間の顛倒した振舞いが、リアルに、存在構造を産出している
のである、と。
今井さんとはちょっとずれていると思われる個所もあります
が、問題意識はほとんど同じだといっていいでしょう。
> >価値形態論の局面と交換過程論の局面との区別は、商品の能動性の媒介
> >としての価値形態の産出と、人間の欲望満足行動を介した商品相互の実現
> >と考えますが(これはまた別の機会の論題で)、とりあえず、区別がある
> >ことが分ればいいのではないでしょうか。
>
> の中で「とりあえず,区別がある」というところが非常に重要になってくるわ
> けです。「商品の能動性の媒介としての価値形態」──つまり物象化とその発
> 展──を取り扱う価値形態論と,認識的転倒(ここでは狭義の物神崇拝,商品
> の物神的性格)を物象化という根拠によって暴露する物神性論と,人格化を取
> り扱う交換過程論との区別が,上記の発生的な関連の区別に照応しているわけ
> です。但し,どのように照応しているのか,今一つよく解らないから,悩んで
> いるわけです。
私も悩んでいるところです。厳密に発生的という点も大賛成です。
> もちろん,神山さんが「これはまた別の機会の論題で」と述べている(しか
> も当座の問題とは直接的には無関係である)以上,このことに触れるのはフェ
> アではありません。
単に、読まれている皆さんにとって、ちょっと論点がおおすぎやしない
かとおもっただけです。というより、ご発言を規制するつもりはなく、論
点を絞って今井さんの問題意識を伺いたかったもので。またいずれいたし
ましょう。
今井さんのおかげで、ずいぶんと私も捕え方が具体化されました。あり
がとうございます。実家に帰ると、パソコンがないので、毎日は私も書込
みできなくなりそうです。
皆さん、何でもいいから、どしどし発言して、書きこんでメールボック
スいっぱいにしてください。