本文
今日は、神山です。
浅川さん、今井さん、ご苦労様です。会員の皆さん、ここ
で行われた議論が、はたしてそれ以外道筋がないものか、
チェックしてくださるとありがたいです。
以下は、私の[51]の補足、浅川さんの[55]、今井さん
の[50][53][56][58]へのリプライを含んだ覚書で
す。覚書なので、ですます調とである調が混ざってますが減
点しないでください。
「今日既に老衰した資本主義の社会機構は、老衰の故に不必
要な数々の詭計を弄し、又この詭計の故にいよいよ不必要に
複雑になった。誰ももうこれ以上この複雑に堪えられない。
堪えきれないでもっと簡明なもっと人間的な社会機構の到来
を熱望している」(小林秀雄「Xへの手紙」)。
1.関係
> 法的人格も関係を形成する主体です
> が,この当の主体自身は関係によって形成された主体で
す。つまり法的人格は
> 関係によって形成された主体として関係を形成するのに過
ぎないわけです。
[50]
関係とは、固定された構造ではなく、媒介のことである。
その実体は、個人の行動の対応様式である。関係そのものが
存在するのではない。
関係を産出しつつ、それを介して行為を高度化し、関係を
再生産する。
法的人格の関係は、物象の関係によって制約されています
が、この関係の矛盾とは、労働する存在の振舞いの矛盾なの
です。承認し合う関係(私的)と、総体連関再生産的関係とを
分離する、労働する人間の振舞です。
「人格の実体」としての関係、について、今井さんと理解
のずれがあるようですが、私は、実体は、形成するもので
あって、人格は、自己の実体を獲得して、実在化する、と考
えています。労働の人格的本質は、交換の承認によって、法
的人格として自己の規定性を獲得し、法的人格は、社会的生
産関係を資本として形成し、それと対話することで、抽象性
を脱し、実在化するのです。この対話の完成が社会主義で
す。
2.意思
意思の圏域。意思の生きた関係運動と、生きた意思の対象
化による対象化された意思(規範)、それに媒介された生き
た意思の織成す運動がこれである。社会の直接的なありよう
は、意思の圏域ということ。しかしこれは、いわば総体の、
局所である。意思は、真相において、労働の媒介としての意
思である。意思の関係は、生産の媒介の姿態として、発生す
る、本源的には生産の関係として、意味を持つ。生産によ
り、総体のなかに意味を持つものだ。
類的存在とは、対象と自己との同一を対自的に媒介する、
自由な人格的な存在である。人格の実在性は、関係としての
人間一般ではなく、意思(意思関係)を産出すのであれ、意
思(意思関係)に反省して意思を産出すのであれ、承認形成
であれ、承認相関であれ、意思としての人間、意思を介して
他の人間とかかわる人間、社会的意思の水準における人間、
他者を介し生き生きとしている人間としての人間、である。
意思関係に据わらない人格とは、そもそも人格ならざるも
の、でしょう。浅川さんが、
> [*1]〈人格〉という言葉は、〈主体的能動性〉と〈相互
承認している自
> 己意識〉という二つの意味を持っています。(注意!後者
のほうには前者
> が契機として含まれています。
[55]
と述べていらっしゃるとおりです。
3.人倫
共同体的な、人格的依存においては。掟のような自然発生
的な主体的でない意思ならざる意思、王や神の意思、個人に
先行する共同体、という形を持った社会的生産がなりたつ。
人格は屹立せず、個人は共同体の分肢。これも、非人格的。
ここでの個人こそ、関係のアンサンブルにすぎない、共同体
の手足である。労働の意思的媒介の直接態。
個人が個人として関係脱却的に解放されるのは近代であ
る。人格(個別)と物象(普遍)とが分岐するのは、商品生
産、近代である。
4.商品論世界の構造からして、労働内の人格、賃金労働者
の人格が予め先行してあるのではない。[51]の9の補足。
> 俺自身,まだきちんと整理することができて
> いないのですが,認識主観が現行版『資本論』のような
> 手続きを経ることができるのは,単純商品流通がその完
> 結性の真っ只中で疎外の発生的関連を通じて自己の非完
> 結性をも現実的に表示しているからだと思うのです。
[50]
システムは、再生産によってシステムであり、商品はシス
テム化するには、商品が前提を措定する。商品が自己の前提
・諸条件を措定する。これがシステム発生。不断の再生産。
マルクスの商品も、我々が買う商品も、同じ今である。
自己=総体=完結の突破プロセスが資本論でしょう。
交換が生産物を商品として対置。交換が人間を自由人とし
て対置。
この対置を生産が再生産することで、この対置は、在る。生
産が生産物を商品として生産し商品は、在る。
私的労働は、私的かつ社会的、人格的かつ人格的でない労
働であり、その存立は、法的人格(個別)と物象(総体)の
分離により媒介される。
交換は、外部の生産を想定するという仕方で生産に依拠
し、生産は想定されたものとして、その実在性は、リアルな
姿は、交換である、という仕方で存立。
交換の措定する人格は生産の姿。
労働内は想定されたものという存在局面であり、商品世界は
非完結である。
マルクスの「物象の人格化と人格の物象化」は、少なくと
も、 直 接 に は 、交換に先立って生産の中で賃労働者の
人格、労働者階級の人格が立てられ、それが疎外される、と
いう意味ではない。私的生産の個普の分離、人格に制御され
ない物象的生産、人格同士をつなぐ関係だが人格の関係とし
て形成されるのでなく、非人格の関係として形成される生産
の関係。資本の根拠は、労働の自己内対立だが、展開するの
は、私的社会的の矛盾の高次化としてである。
商品論は類的本質まだリアルでない。
5.人格と法的人格
浅川さんのつぎの記述、そのとおりだとおもいます。
> [*1]〈人格〉という言葉は、〈主体的能動性〉と〈相互
承認している自
> 己意識〉という二つの意味を持っています。(注意!後者
のほうには前者
> が契機として含まれています。)となると、「物象はどこ
で人格化するか?」
> ところ
> が、「"物象の操り人形" でしかない」と見えたその姿こ
そ見せかけで、労働する
> 諸個人だけは、同時に本物の主体=「類的本質の担い手
《1》」なのです。だから、
> 「自由な法的人格《2'》」は、「物象の人格化としての人
格《2》」に過ぎないとい
> う浅い分析に留まってしまえば、広松氏とともに、物象に
操られる不自由な人間しか
> 見出せず、社会変革の主体を見失う[*1]。
>
> 「類的本質の担い手《1》」は、資本主義社会では「物象
の人格化としての人格
> 《2》」とならざるをえないにもかかわらず、依然として
社会の産出を事実において
> 担ってしまっているのです[*1]。そして他方において他人
に隷属することをよしとは
> しない存在でもあるのです。もし、資本主義社会の「類的
本質の担い手《1》」が、
> 「自由な法的人格《2'》」という性格を持たないとした
ら、奴隷制社会の奴隷と同じ
> で、新社会の形成主体、社会変革の担い手とはなりえない
[*2]。
> 今井さんが「物象はどこで人格化するか?」[*1]という
問題にこだわる理由は、
> 〈主体的能動性〉は、否定的な形態ではあれ、はじめから
労働する諸個人に備わって
> いるものであることを確認するためでしょう。だから、今
井さんにあっては、この「本> 源的な」能動性に対置される
「法的人格」の能動性は、能動性ではあっても物象に支
> 配されたそれ、「物象の人格化としての人格」である他は
ないことが強調されるので
> す。反対に神山さんが、労働する諸個人の「本源的な」能
動性を強調することにも、対> 応して「法的人格」を「社会
的諸関係のアンサンブル」として捉えることにも慎重で
> ある理由は、労働する諸個人の能動性は、今のところまだ
(つまり、資本主義社会で
> は)否定態としてしか存在しないがゆえに、当事者の自覚
にもたらされるときにはつ
> ねに、法的人格(=相互承認している自己意識)の形式を
とらざるをえないことを重
> 視するからです。どれほど、抽象的・形式的であろうと
「法的人格」の能動性は、労働する諸個人の能動性であるこ
と、それは自覚的に社会関係を形成する能動性になりえて
> いることが強調されます。
>
> お二人とも、「物象の人格化としての人格《2》」を単な
る"物象の操り人形"としか
> 見ない広松を批判します。神山さんは、「物象の人格化と
しての人格《2》」が、同時
> に「自由な法的人格《2'》」であること強調します。その
ことによって、社会を形成
> する能動性は,資本主義ではこの形態でしか存在しえず、
だからこそ、労働する諸個
> 人の能動性も、この形態をとって現れるほかなく、した
がって、広松が"物象の操り
> 人形"とみたものこそ労働する諸個人の能動性の特殊資本
主義的な存在形態であるこ
> とを明らかにします。これに対し、今井さんは、「物象の
人格化としての人格《2》」
> の発生過程を解き明かすことによって、それがじつは、労
働する諸個人の能動性の否
> 定態であること直接指摘しようとするのです。
>
私も、今井さんの言う
> 正反対のもの(物象的に社会的な生産関係を措定するもの
と物象的に社会的な生産関係によって措定されたもの,つま
り,一言で言うと,社会を措定するものと社会によって措定
されたもの)が"一つのもの"(どちらも人格)であるという
ことを前提しています。
[50]
とおなじく類的存在の有り様を考えているのです。
> 俺自身,"神山さんがこんな風に考えているわけがない
なぁ"と思いながら書
> いているわけです。ですが,人格概念の展開の必要性を訴
えるためには止むを
> 得ざる表現だということで,どうかお許しください。
[50]
了解してます。
> 物象は正に人格的生産関係の物象化で
> あるからこそ,人格化せずにはいられない。
[50]
そうです。
> 神山さんの場合には,生産では人格は「あるけどない」の
ではなく,"ない
> からない"──全くない──わけです。何故ならば,神山
さんがおっしゃるよ
> うに,「承認の関係を生産では、つくれ」ない──そして
もし「承認の関係を
> 〔……〕つくれ」ないならば,そもそも人格は発生しない
──からです。神山
> さんの用語法では,生産における(労働による)人格の否
定的な形成はすっぽ
> りと抜け落ちてしまい,人格は交換過程での相互的承認の
結果になってしまい
> ます
> 神山さんの場合にも,「生産において人格性が否定され
ている」のでしょう
> が,それは疎外された労働による人格の自己否定的形成で
はなく,あくまでも
> 交換過程で発生した自由・平等な私的所有者の──法的人
格の──否定だとい
> うことになるはずです。神山さんの用語法では,「人格
性」は交換過程でしか
> 形成されないのだから,生産過程でのその否定も,交換過
程で形成されたもの
> が生産過程で否定されるということになるはずです。だか
ら,こと人格論に関
> する限りでは(他の議論に関してはそうではないのでしょ
うが)生産過程と交
> 換過程とは全く分離したまま,交換過程で発生した人格性
が交換過程から全く
> 切り離された生産過程で単純に否定されるということを,
「生産において人格
> 性が否定されていること」という表現は意味しているはず
です。
> 俺の場合にも,生産においては正に人格が否定されてい
るわけです。何故な
> らば,生産において類的本質としての人格が形成されるわ
けですが,但し自己
> からの類の疎外として否定的に形成されているからです。
もちろん,神山さん
> と同様に俺も,生産過程での法的人格の──抽象的自由・
抽象的平等・私的所
> 有の──否定を強調します。しかし,俺の場合には,資本
主義的生産での法的
> 人格(交換過程で形成された)の否定──抽象的自由・形
式的平等・私的所有
> の否定──は,人格そのものの否定的形成の必然的な結果
であるだけではな
> [*2]神山さんの場合には,人格は労働によって措定され
> るのではなく,交換過程での相互的承認によって措定さ
> れるのですから,労働論と人格論との対置という図式に
> なるのは必然的だと,俺は考えます。しかしながら,そ
> れならばそれで,何故に人格論に対して労働論を対置す
> るということが可能なのでしょうか。
> [*1]神山さんの場合には,労働論と人格論とは全く分離
> しています。何故ならば,神山さんの場合には,人格は
> 交換過程で形成されるからです。この点が俺と神山さん
> との間で最も対立する点だと思います。
[50]
「無いから無い」ではなく、猿でない、現代人類・ホモサ
ピエンスとしての、有史を成立たしめる、労働の完成された
能力(人格的能力、人格的本質)を前提して、その実在性を
問題としているのです。そうでなかったら、法的人格がなぜ
成立するのでしょう?交換という労働の姿態が、なぜ法的人
格を立てるのでしょう。承認関係を創らなければならない
(労働の即自的社会性)が、創れない(孤立)、この媒介
が、法的人格と物象との分離として媒介されるのです。労働
の個別性の契機の実在化として法的人格が成立する。労働の
人格性の即自性から、疎外としての実在化を論じている。人
格も、交換も労働の姿として論じており、これだけがポイン
トなのです。交換における法的人格の形成は、私的労働とし
ての「疎外された労働」が、生産の人格性を直接には構成し
ないが、交換という生産の関係の姿態において、形成する、
ということです。交換で発生した人格が、生産で否定される
ことではありません。交換における発生を問題としているの
ですから。生産において労働者が予め人格性を形成するので
なく、それは、資本が措定するものです。[51]で私が「還
帰」として捉えたところをご覧ください。労働の即自的人格
本質⇒交換の人格発生⇒労働者の人格性。
人格は労働が想定するのであって、交換は労働の分枝なの
です。
人格論は労働論の契機です。
今井さんの、類的本質=人格、法的人格=関係のアンサン
ブル、というわけかたのほうが、交換を労働から分離してい
るようにおもわれます。
類的本質は、即自性。実在化は、法的人格として。これ
が、陶冶される。労働する存在の、労働の人格性の、人格的
労働の、類的存在(自己と対象の同一の自覚的媒介)の、疎
外。私的生産。
> 社会的
> 関係とは全く別に"人格なるもの"が実存しているなど
> ということを主張するつもりは,俺には全くありませ
> ん。(a)現代的社会では,人格は類的本質でありなが
> ら,しかし物象の人格化(社会的諸関係のアンサンブ
> ル)としてしか実存し得ません。だからこそ,類的本質
> と社会的諸関係のアンサンブルとは(全く分離してはい
> るが)"一つのもの"であるわけです。だからこそま
> た,人格は自己矛盾であるわけです。(b)物象の人格化
> を全く別にしても,そもそも,現代的社会では,諸人格
> の関係は諸物象の関係としてしか実存し得ません(人格
> の物象化)。寧ろ,物象化しているということこそは,
> 人格が類的本質であるということを指し示しています。
> 。
[50]
今井さんも、労働者階級の人格が予めあるとは考えていない
はずです。今井説も、人格a=人格b、とするし、人格aは潜
伏、という理解ではないでしょう。
> 人格a(類的本質)−矛盾1→物象−矛盾2→人格b(ペルソ
ナ)
>
└────────────┬─────────────┘
> 人格の物象化と物象の人格化と
の矛盾
>
> すなわち,人格と物象との矛盾と言っても,それは人格a
と人格の物象化との
> 矛盾(矛盾1)と,物象と物象の人格化との矛盾(矛盾2)
とに分かれ,その全
> 体を直接的に統一しているのが物象の人格化と人格の物象
化との矛盾であると
> 考える次第です[*1]。で,神山さんが「自由な法的人格と
物象との矛盾」と述
> べているのは矛盾2のことだと解釈します。更にまた,神
山さんは,人格の物
> 象化というフレームワークについてはこれを捨象するはず
ですから,神山さん
> の場合には人格と物象との矛盾は「自由な法的人格と物象
との矛盾」以外には
> ないのだと解釈します。すなわち,神山さんの場合には,
人格論のフレームワ
> ークからは矛盾1は捨象される(他のフレームワークから
は捨象されないので
> しょうが)と,俺は想定します[*2]。
>
> [*1]マルクスが何を想定して「人格の物象化と物象の人
> 格化との対立」に言及しているのか,俺には今一つよく
> 解りません。だから,俺のフレームワークがマルクスの
> それと同じであると主張するつもりは俺には全くありま
> せん。もしかしたら全く別ものであるのかもしれませ
> ん。しかも,物象は人格の物象化の結果であり,人格b
> は物象の人格化の結果である以上,マルクスが言及して
> いる「人格の物象化と物象の人格化との対立」は矛盾2
> だけを指しているかのようにも見えます。しかし,マル
> クスが少なくとも神山さんがおっしゃる「自由な法的人
> 格と物象との矛盾」だけを想定しているのでは決してな
> いということは確実だと思います。そうでなければ,流
> 通手段で恐慌の可能性について述べるところで,「使用
> 価値と価値との対立,私的労働が同時に直接的に社会的
> な労働として表示されなければならないという対立,特
> 殊的な具体的労働が同時にただ抽象的・一般的労働とし
> てのみ妥当するという対立」(KI (2. Auflage),
> S.138)と並んで「商品に内在的な対立」(ebenda)と
> してこのタームを用いたりしないでしょう。ここでは,
> 俺は(マルクスと同じであるのか不明ですが)"物象化
> の過程そのもの(矛盾1)と人格化の過程そのもの(矛
> 盾2)とが矛盾するのだ"という意味で,このタームを
> 用いておきます。
[50]
法的人格は、物象の人格化で、関係に規定されたもの。労働
者は、関係を産出す自由な主体。
> さて,法的人格は法的人格を獲得した後にも,何百回何千
> 回と相互的承認を繰り返すでしょうが,やはりそのたびご
とに,法的人格は法
> 的人格としての資格においてではなく,「商品の行動とし
て自己の行動をする
> 疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格」をもっ
ている主体としての
> 資格において,自己を法的人格として再規定する──しか
も他の主体(=取引
> 相手)による承認を通じて再規定する──わけです。
[50]
相互承認は、自己がする、他人に反省的な自己の規定性の
獲得です。商売のたびに、再生産されるのですが、法的人格
は、いったん成立したら、交換から自立化して、交換に先
立って、諸個人が獲得済みのものとして現れるのです。貨幣
を介した商品流通の展開において、交換に先立ち、諸個人は
法的人格です。
> 山本広太郎さんが強調しているように,マルクス人格論と
ヘーゲ
> ル人格論とは鋭く対立すると,俺は考えています。神山さ
んはよくご存じのよ
> うに,『精神現象学』では,人格が俎上に上るのは法的状
態において──つま
> り法的人格として──です。だからこそ,ヘーゲルにとっ
ては人格は「抽象的
> 普遍」でしかないもの,ペルソナでしかないもの,社会的
諸関係のアンサンブ
> ルでしかないものになってしまうわけです。このようなこ
とが生じるのも,ヘ
> ーゲルが人格の物象化と物象の人格化との対立軸を見てい
ないから
> だ[*1],[*2]と,俺は考えます。要するに,人格の物象化
と物象の人格化とが
> ヘーゲルの場合には未分化なものであると,俺は考えるわ
けです。
53
> そう考えると,マルクス人格論が「ヘーゲル所有論を引継
いで」いるという
> 部分にも限定が必要だと思うのです。「所有論」云々とい
う箇所から判断する
> と,ここで神山さんが言及しているマルクス人格論とは法
的人格論のことであ
> る(つまり類的本質論は捨象されている)と解釈されま
す。
53
所有論だけというのは、訂正します。現象学の、人倫(実
体)、法的状態(個別。実体喪失。個が実体)、疎外された
精神(疎外としての実体形成)、個別と実体との合致として
の宗教、絶対知、という、直接性、疎外、媒介的統一という
ながれを、資本論はふまえています。しかし、今井さんも
おっしゃるように、法的人格そのものは、ヘーゲルは低い評
価を与えています。マルクスは、ちがうとおもいます。
6.資本主義の入口と出口
入口は商品論世界である。
出口はこの帰結である。資本主義の展開は、生産に疎遠な
人格の孤立性(抽象的私的所有、抽象的国家)を止揚しつ
つ、総体連関においては、それらを非人格の力に意味転換
し、資本主義に留まる。社会的生産の連関は、物象的に作動
し、人格、国家、市場、等の形態を否定的に貫く。総体連関
を人格的連関に意味転換し、これらの形態の対立性を止揚す
ることが社会主義。形態の破壊ではない。
総体連関は、人格の関係として形成されていない。総体連
関は、生産の関係として、非人格の関係、物象の関係として
形成されている。生産の力を吸収し作動する物象の連関であ
り、人格の関係から脱落したものである。
自由な私有財産制において生まれた人格性は、その内部論
理では、外の論理(物が主体、人間は奴隷)を許さない総体
性である。しかし、リアルな総体性は、総体産出的な生産を
含んだ物象の運動に貫かれており、人格性は、スポットであ
り、自己の根拠を自ら再生するのではなく自己の外部に依拠
しているが、自己の論理で架空の根拠をもつイデオロギー的
なものである。総体性は資本の社会的生産の連関。
> 法的人格も関係を形成する主体です
> が,この当の主体自身は関係によって形成された主体で
す。つまり法的人格は
> 関係によって形成された主体として関係を形成するのに過
ぎないわけです。
(50)というのは、生産の関係によって、人格の関係が限界
づけられ、対立するというように私は、読み替えます。
自由な人格、社会的意思という領域の限界が、資本という
生産。自由な人格は、総体的なもの、自己であり、外部を否
定するものだから、資本という生産に対峙して、経験可能な
主体である。
企業、国家という自覚的制御の形態も、スポットである。
全体としては制御されていない。総体連関は、世界市場の物
象的連関として生きている。
世界市場を諸人格の合意・理性の連関の論理に即して制御
することが社会主義である。
私が意識している点のうちいくつか挙げると。
私は、社会主義の「客観的条件」(社会化)と「主体的条
件」(労働者階級の自覚)という枠組を取らない。直接的に
労働する諸個人の連帯を、軽視しているわけではない。客観
はできたが、主体はまだ、という左翼の議論は、「狼が来
た」といつも叫んでいる少年と同じだから。客観ができてし
まったら、支配システムと根拠の異なる世界が潜伏的に完成
した、という、絶対知の想定。主体形成の道徳的主張。
法的人格の捨象としての、労働者の疎外革命という議論
は、道徳論である。
労働者個々人が全員、高次の意識に媒介される、経験す
る、とは考えない。それができれば、すでに社会主義なので
ある。存在総体の自己否定としてのみ(自己とは総体であ
る)システム転換はある。総体は、労働という発生点と、自
由な人格とを含んでおり、この自己否定論は、道徳的な階級
的自覚でもなく、人間抜きで勝手に進化するという生産力主
義、自動崩壊論でもない。
労働者階級や工場=共同体への期待や思い入れからではな
く、生産のあり方から媒介することのみである。
> 真実態においては,(a)人格は具体的普遍ではなく,抽象
的普遍である。
> (b)相互的承認(=関係)の方が実体であって,これに対
して人格の方は,承
> 認関係のアンサンブル,この実体の形態──この実体に
よって措定された形
> 態,仮面,ペルソナ──である[*5]。(c)つまり人格は法
的人格,抽象的人
> 格,(通常の言い方では)"近代的人格","疎外された自
己意識"以外には
> あり得ない(人格≡法的人格)。ここで,その他の雑多
な,人格という用語で
> 呼ばれているもの(例えば,今井によって人格と呼ばれて
いるもの)も,以下
> の(d),(e)のような仕方で法的人格に包摂され得る。(d)
歴史的なシステムに
> 即しては,ヘーゲルが言う「人倫性」の世界(マルクスが
言う資本主義的生産
> に先行する歴史的諸形態,人格的依存の状態)では厳密な
意味では人格はあり
> 得ない[*6]し,共産主義社会でも厳密な意味では人格はあ
り得ない[*7]。
58
真実態は、社会的生産を自己のものに包摂した人格、法的
人格の抽象性を止揚した、社会的媒介を形成し終えた人間で
す。法的人格の、自己性、社会形成性が社会的生産を自己の
ものにした、完成した類的本質です。社会主義こそ、生き生
きした相互承認の世界でしょう。社会主義こそ、資本(社会
的生産)と法的人格(個人)との無媒介な統一の世界から脱
却した、個人が自己の媒介として社会を形成し終えた社会、
人間が自由な人格として振舞う世界でしょう。資本主義は、
自由な人格として振舞える世界が、局所的に実現し、自由な
人格として振舞えない世界を産出している、分裂した世界で
す。社会主義は、人格‐的‐労働が総体システムになること
です。[51]の12以下ご覧ください。
7.広松といわず、意識の物象化論について
> 第一に,ちょっと細かい点ですが,俺の用語法では「人
格性」は「対象にお
> ける実在」ではなく,あくまでも「自己における実在」で
す。「対象にお
> ける実在」というのがちょっとよく解りにくいのですが,
俺の場合には対象的
> に振る舞っている>限りでの自己は人格ではありません。
物象の人格化は,いか
> に物象の人格化であろうとも,それでもやはり自己の行為
を行う主体です。
(50)
意識経験学は、認識の振舞いに相関する対象を、認識の振
舞いの相関物から、対象それ自身の自己における対象、対象
自身に、つまり、存在自身に即した存在に転換する。ヘーゲ
ルは、自己意識論において自己意識の対象を他の自己意識に
求め、自己意識の実体として、自己意識の相互の関係が形成
されないことには、認識不可能、という路線を敷いてしまっ
た。
広松の当事者は、このヘーゲルの破綻構造と等しく、意識
する存在であり、存在に拘束され存在を知り得ない意識であ
り、対象は、意識に相関したもの、対象を知るのは、観察者
「学知的第三者」であり、こいつの問題意識に相関して対象
は真をあらわす。認識主観と認識対象という相関。
これに対し、マルクスは、存在する自己としての労働する
自己を介して、存在自身を知る。認識主観を存在する主観に
転換し、認識対象を存在する対象それ自身に転換し、対象は
存在という資格、自己という資格をもって立てられている。
広松は、社会を自己のものとしないと、認識対象を自己の
ものにできない構造になっている。
以上を意識して、「対象」という言葉を使っています。