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今井さん、皆さん、浅川です。遅くなりましたが、残りの質問にお答えします。
今井さん([ism-study.72] )
> 1. 人格論ツリーにおける浅川説の位置付け
>
> 先ず問題になるのは,このツリーと浅川さんのご見解との関連です。
> 第一に,浅川さんの説は,株主総会ツリーのこれまでの議論との関連では,
> ──
>
> ・類的本質は承認されていようといまいと人格である(この点では今井説と同
> じであって,神山説とは違う。但し,類的本質を単なる質料として位置付け
> る点で,今井とは違う。後述)。
> ・従って,商品所持者は承認されていようといまいと人格である(この点では
> 今井説と同じであって,神山説とは違う。但し,商品所持者を単なる質料と
> して位置付ける点で,今井とは違う。後述)。
> ・法的人格・私的所有者の措定(=相互的承認)は物象の人格化(=主体
> 化)という運動ではない(この点では今井説とも神山説とも違う)。
> ・ただ商品所持者の措定だけが物象の人格化という運動である(この点で
> は今井説とも神山説とも違う)。
>
> ──こういうことなのでしょうか?
前便との重複もありますが、4項目すべてにお答えします。
第1項目について;類的本質の人格性については、まとめて頂いたとおりです。類的本
質と質料性との関係については、すでにお答えしたように[*1][ism-study74]、類的
本質が質料性しか持たないということではありません。
[*1]なお、[ism-study74]の本文中で、「質量」とあるのは
全て「質料」の誤変換です。お詫びして訂正させていただ
きます。
第2項目について;物臭なことをしたために迷惑をかけてしまいました。きちんと説明
できなかったことをお詫びするしかありません。現実の人間、その総体性において捉
えられた人間(「」なし)は、類的本質であるとともに商品所持者であり、商品所持
者であるとともに私的所有者であって、常に人格なのですが、「商品所持者」という規
定性それ自体には、人格性は含まれないと思います。
第3項目について;ここが一番厄介なところで、YESともNOともお答えしかねる点なの
ですが…。前回書こうとしたのは、“(諸人格の)経済的扮装は、物象の人格化であ
る”(但し、『資本論』では、「経済的諸関係の人格化」)という場合の“人格化”
によって措提されるものは、人格(私的所有者)それ自体ではなくその扮装であるとい
うことです。この人格化は直接、人格(私的所有者)を措提しているわけでなく、ひと
まず諸物象(諸関係)を扮装に転化させるのです。
(第3項目続き)それでは、扮装を身にまとった商品所持者たちが相互承認を通じて
私的所有者という人格になることを「物象の人格化」といってはならないのか、という
と、実は、こちらも「物象の人格化」と呼ぶべきものだと考えています。もちろん、そ
うはいっても、上で述べたような物象の人格化とは内容が違います。商品所持者は、相
互承認を通じて私的所有者という人格を自分の形態として受け取るわけですが、この
とき同時に物象の側も私的所有者という人格を自分の形態として受け取ります。した
がって、相互承認による私的所有者という人格の措提は、物象を人格として現出せし
めること(人格をして物象を代表せしめること)、そういう意味での
「物象の人格化」にほかなりません。
第4項目について;第2項目、第3項目と関連する問題です。「第2項目について」で述
べたように、僕の場合には、そのものとして捉えられた商品所持者は、人格ではない
ので、商品所持者の措提は、“物象が商品所持者という人格になる”という意味での
物象の人格化ではありません。ですが、商品所持者が商品を持って交換過程に現れる
こと(商品所持者の措提)は、物象の主体化という意味での物象の人格化の直接の結
果です。所持者は、主体化した物象の運動を媒介するために交換過程に登場しなけれ
ばないらないのだと考えます。
今井さん([ism-study.72] )
> 第二に,俺に対する質問との関連では,──今井説の混乱の原因は,物象の
> 人格化(=主体化)という運動(主語は物象)と,人間(=単なる質料)の相
> 互的承認という運動(主語は人間)とを混同するという点にある。──こうい
> うことなのでしょうか?
あの質問をしたのは、問題と感じている点を問いただすという意図からではなく、自
分の整理が間違っていないかどうか確認するためでした。今井さんにあっても、相互
承認による物象の人格化とそれに先立つ物象の人格化は、内容的に区別されており、
その上で両者を一連の過程として捉えて、全体としての物象の人格化を考えておられ
るものと思います。そのような捉え方は、「混同」とはいわないと思います。僕との相
違点は、むしろ相互承認に先立つ物象の人格化の内容にあるのではないかと思いま
す。
今井さん([ism-study.72] )
> 2. 質料因の位置付け
>[…中略…]
> 商品所持者の位置付けについて神山説を俺が批判した理由の一つは,神山説
> では一体にどのような主体がどのような資格で相互的に承認し合うことができ
> るのか不明だったからでした。この疑問は浅川さんにも当て嵌まります。「単
> なる質料」あるいは「単なる質料的媒介物」が何故に相互的に承認し合うこと
> ができるのか,説明をいただければ幸いです。(…第1の問題―浅川―)
>[…中略…]
> 俺の考えで
> は,個別性と一般性とを統一する主体として,一般性をもち一般性をつくる個
> 別的主体として,要するに社会形成主体として,一言で言って「単なる質料」
> ではない主体として,人間は類的本質=人格なのです(人格aも人格b1も人格
> b2も結局のところ類的本質であるということについては,何度も述べてはいま
> すが,例えば“[ism-study.64] Re^4: Arbeit und Person”(1999/09/16
> 14:24)をご覧ください)。
> そうすると,「単なる質料」あるいは「単なる質料的媒介物」というものが
> 浅川さんの議論でどのような意味をもっているのか,明確にしていただきたい
> のです。(…第2の問題―浅川―)
>[…中略…]
> もし類的本質としての人格aおよび人格b1が人格b2に対して質料的だという
> ことであるならば,なんの異論もないのです(但し,その場合には,俺の考え
> では,人格aは人格b1に対しても質料的です)。あるいは,類的本質としての
> 人格aが類的本質としての物象に対して質料的だ(あるいは質料的なものに貶
> められている)ということであるならば,なんの異論もないのです。けれど
> も,「単なる質料」(絶対的な素材性)というのは,“〜に対して質料的”
> (相対的な素材性)とはニュアンスが違うようにも思われるのです。ちょっと
> この点,浅川さんのご主張を解釈しきれなかったので,もう少し説明をいただ
> ければ幸いです。(…第3の問題―浅川―)
第3の問題にお答えすることで、第2の問題にも解答を与えることができると思われ
ます。それを踏まえて第1の問題にお答えするのが最も分りやすいと思います。
第3および第2の問題;「単なる質料的媒介物」の「単なる」という表現が誤解を招いて
しまったようです。“[ism-study.74] 2000/03/10 (金) 1:23)”でも触れましたが、
“類的本質としての人間が、その類的本質を物象として疎外することで、この物象と
の対比で見れば、「質料的なものに貶められている」”、こういう内容を示すつもり
で使った表現でした。ですから、実は、主観的には、まさに今井さんの仰る「相対的な
素材性」をいっているつもりだったのですが、表現がまずかったと思います。したがっ
て「質料的媒介物」(「質料的なものに貶められている」「人間」)とは、類的本質
である人間が類的本質ではないかのように現れている状態です。
第1の問題;商品所持者は、質料的なものに貶められているといっても、実際には類
的本質としての人間ですから、当然、意思と意識を持っています。質料的なものに「自
己還元」してしまっているといっても、意思的契機や社会的な形態規定や類的本質を
自分自身から物理的に分離できるわけではありません(あたりまえのことですが)。
したがって、商品所持者を「質料的媒介物としての「人間」」とする場合も、意思と意識
を捨象しているわけではなく、彼らの意思や意識も物象の運動を媒介するに過ぎない
ものになっているという意味で言っています。商品所持者として現れる人間(「」な
し)の姿態(=社会的形態規定)は、彼の意思と意識によって決まるのではなく、彼が番
人を勤める商品の他の物象との関係によって決まるのだ、むしろ彼らの意思と意識は
物象的関係という形態的なものに規定される質料的なものとして現れるのだ、という
ことです。
今井さん([ism-study.72] )
> 3. 現実的人格の転倒性は認識的転倒の転倒性か?
>
> 最後に問題になるのは,浅川さんの人格化論,承認論における転倒の位置付
> けについてです。
> […中略…]
> 要するに,結局のところ,「思い込」み(=意識の世界,主観の世界)にお
> いて人格性が「取り戻」されているということなのでしょうか?
舌足らずの説明しかできなくて恐縮です。「解決」を単に「「法的人格の措提」によっ
て」とせずに「「物象の人格化→法的人格の措提」によって」としたのは、物象の人
格化(主体化)と表裏の関係にある人間の物象への隷属がすでに、「解決」の一契機
であると考えてのことでした。というのは、物象への隷属は、疎外が外化からさらに深
化した事態に他ならず、その意味で転倒なのですが、そうではあっても、自立化した
形態的契機として外化されてしまっている類的本質(=人格性)と質料的契機に貶めら
れた「人間」との再統一ではあるからです。しかし、再統一は、これで完了するわけで
はなく、次には、当事者達の意識に対して正当化されなければなりません。もちろん
相互承認の意義が正当化に尽きるわけでもなく、また正当化の意義が僕が言っている
ような「思い込み」に尽きるわけでもないのですが、「物象の人格化→法的人格の措
提」には、この「思い込み」が不可欠の契機として含まれていると考えます。
今井さん([ism-study.72] )
>「思い込む
> という転倒的な形」という部分における「転倒」とは,要するに,(現実的転
> 倒ではなく)認識的転倒のことですよね? 現実的人格が転倒的だという点は
> 俺と同じですが,その転倒の意味内容が俺とはちょっと違うようです。浅川さ
> んの場合には,現実的人格が人格である──浅川さんの用語法では「「人格
> 性」を「取り戻」す──のはそう「思い込」んでいるだけなんだということに
> なってしまうように思われます。
読点の打ち方に問題があったと思います。「という転倒的な形」の言葉は、「物象に隷
属しながら、主観的には逆に物象の運動法則を目的意識的に制御していると思い込
む」の全体にかけたつもりでいました。実在的な関係としての主客の転倒がまずあっ
て、しかし、それはそういうものとはまだ自覚されていないということです。いわば
二重の転倒ですが、もちろん実在的な関係を転倒と自覚しただけでは、転倒は、解消
されないと思います。それから、「取り戻し」についてですが、こちらも、すでに述べ
たように、「思い込み」だけが相互承認の内容ではないし、相互承認だけが「取り戻し」
の内容ではないのです。「思い込み」は、何度も裏切られるわけですが、しかし、それ
によって人格性が失われるわけではないと思います。
今井さん([ism-study.72] )
> 文脈から見ると,この「取り戻し」が発生するのは法的人格・私的所有者の
> 措定(相互的承認)においてですよね? 先ず,「自分の「人格性」を疎外さ
> せて、しかし、物象に隷属しながら」という箇所について言うと,これは明ら
> かに人格の物象化において(つまり相互的承認に先行して)発生することです
> よね? 次に,「主観的には逆に物象の運動法則を目的意識的に制御している
> と思い込む」という箇所について言うと,これは相互的承認で初めて発生する
> ことなのでしょうか? もしそうでないならば,何故に,「「物象の人格化→
> 法的人格の措提」によって」,人間(Mensch)の「自己疎外/自己還元」は
> 「「解決」されてもい」ると言えるのでしょうか?
「取り戻し」の“発生”ということになると、むしろ、私的所有者の措提の前です。し
かし、「取り戻し」は、必然的に直ちに相互承認にまで進まなければならない、そうし
なければ「取り戻し」として実現しないという理解です。「自分の「人格性」を疎外さ
せて、しかし、物象に隷属しながら」という個所は、「しかし」で結んであるよう
に、あの文脈では、同一の段階としてよりも、区別されるべき二つの段階として捉え
られています。この場合「疎外」は、「外化」とした方が厳密であったかもしれません。
“外化と隷属”でもって“疎外”で人格の物象化は、外化のほうにあたると考えてい
ます。相互承認に先行するかということについては、先行するということになります。
「思い込み」が純然たる「思い込み」にとどまり、社会的な妥当性を持たないかぎりで
は、必ずしも相互承認を必要としないと思いますが、個々の商品所持者の思い込み
が、相互承認を経て社会的に妥当するものとなる点が重要だと思います。念のために
繰り返しますが、「思い込み」もそれが社会的妥当性を持つようになることも、そのこ
と自体が人格性の「取り戻し」であるわけではありません。人格性を物象の人格化とし
て転倒的な関係を維持したまま「取り戻す」場合には、このような意識の上での転倒
も随伴せざるを得ないということです。
遅くなって申し訳ありませんでした。