日時 | 2000年02月20日(第68回例会) |
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場所 | 法政大学 |
テーマ | 『雇用不安』(野村正實著),第4章,終章 |
今回は『雇用不安』の中で日本資本主義の現状およびそれに対する著者の対案を展開した部分について,検討を加えた。
前回と同様に,野村の二重構造論,前近代セクター論が中心問題になった。“資本主義”(近代)というものが人びとに意識されるようになって以来,依然として続いている“近代が抱える前近代性”をどう評価するのか,それによって実践的な態度が一変するからである。その際に,報告者は特に野村の近代家族論に対して,フェミニストたちの“近代家族”論との関連を説明しながら,疑問を呈した。
野村の近代家族論の対象範囲はフェミニストたちの近代家族論の対象範囲とほぼ同じである。しかし,──
(1)フェミニストが差別との関連に着目するのに対して,野村は就労形態に着目している。野村が“家族形態”と言う時には,それは雇用形態のことを指し,“雇用形態”と言う時には,それは家族形態のことを指している。要するに,野村の場合には,家族形態と雇用形態とは,関連しているだけではなく,全く同じものである。
(2)フェミニストの中には,ブルジョア家族に近代家族の起源を求める者がいる。これに対して,野村の場合には,プロレタリア家族(しかも大企業の基幹工・正規従業員の家族)だけが近代家族である。
(3)これが重要なのだが,フェミニストの中には,現代と近代とを区別して,近代家族に“現代家族”への過渡形態という位置付けを与える者もいる。この場合には,近代家族を問題にする時には,この近代家族そのものが“現代的”ではないという問題意識──近代家族が本当に近代的なのかという問題意識──がある。これに対して,野村にはこのような問題意識はない。従って,野村は単に“近代家族”ではないものに“前近代的”(遅れたもの,古くさいもの)というレッテルを貼っているだけである。これでは,近代家族の非現代性という問題提起も,現代における家族そのものの変容という問題提起も生じようがない。
野村の場合にもフェミニストの場合にも,家族の非近代性(遅れたもの,古いもの)の位置付けがネックである。これに対して,“近代家族”も“前近代家族”も“現代家族”も,資本主義(現代)自身が生み出したものである。現代そのものが家族のこのような分節化を生み出し,従ってまた分節化の克服の条件(特に女性の社会進出の必要性)をも生み出すすのである。現代そのものの動態にしがみつかない限り,“前近代性”の克服もまた不可能である。
その他に,テキストに即しては,報告者は次の点を問題にした。──野村は規制緩和論による大店法批判に反論しようとしているが,頭ごなしに“それは間違っている”と断言するだけであって,なんの論証もない。農業近代化が農業人口の減少を齎したという野村の見解は一面的であって,逆に農業人口の減少こそが農業近代化をもたらしたのだ。
出席者からは次の問題が提起された。──何故に全部雇用が衰退したのか,ハッキリとした説明がないが,野村が挙げている原因は結局のところ日本資本主義の発展そのものである。従ってまた,どうやれば全部雇用を維持することができるのか,全く不明である。野村によると,全部雇用衰退は長期的な流れであって,経済必然的に生じた(つまり規制緩和はこの必然的な流れを加速しているのに過ぎない)のだが,しかし野村が出している対案は結局のところ規制緩和反対だけであるから,たとえ仮に万が一,規制緩和政策を阻止することができるとしても,全部雇用衰退の速度を緩めるだけであって,全部雇用の維持は不可能である。