本文

 ISM研究会の皆さん,味わう愛国者こと今井です。そろそろやられたネタも
尽きたので,私の内面から溢れてくる,押さえても押さえきれない右翼的・反
動的情熱を皆さんに押し付けることにしましょう。ご不快な方はお読みになら
ないように。

          **************************************************

ちればこそ
    いとゞさくらは
        めでたけれ
うき世になにか
    ひさしかるべき

──業平

 今年も桜の花が吹雪になって舞い,春風に乗って彼方へと散っていった。飲
むごとに漂い,酔うごとに降る。しばしば言われているように日本人の死生観
と合致したのか,春と聞いて桜を連想しない者は寧ろ少数派であろう。

 春と桜の,この連想が菓子として結晶したのが桜餅である。桜と言っても,
葉も花びらも塩漬けなので,別に旬の物ではないが,しかしあの香りは春に相
応しい。

 桜餅には長命寺と道明寺がある。皆さんご承知のとおり,関東が長命寺,関
西が道明寺だ。どちらもなかなかにいいものである。道明寺は蒸した道明寺粉
で餡を包み,長命寺は小麦粉をベースにした焼皮で餡を包む。

 道明寺は何にしても旨い。道明寺粉を出しに浸して食紅を加え,根元を切っ
た桜葉を香り付けに使い,蒸してから冷ます。道明寺粉で桜鯛を包み,桜の花
びらの塩漬けを塩抜きして添えて再び軽く蒸し直し,出し餡をかけていただ
く。それだけで,鯛の旨みが閉じ込められた,春の香りが漂う華麗な一品がで
き上がる。菜の花のお浸しを添えてもいい。蓬麸を浮かべてももいい。若芽を
ひいてもいい。出し餡との相性を考える必要はあまりない。とにかく春の息吹
を感じることさえできればいいのだ。

 それとは逆に長命寺の皮は桜餅にしか使えないしろものなのである。よくよ
く考えてみて,あの皮が旨いわけがない。薄く焼いているのにもったりしてい
て野暮なだけである。同じく小麦粉を使うと言っても,皮だけを較べると,例
えばクレープの軽やかさには遥かに及ばない。それが証拠に,クレープには何
を付けても旨いが,長命寺の皮は小豆餡──しかもこし餡──しか合わないの
である。試してみたまえ,長命寺の皮だけを少し食べても,不味いだけであ
る。想像してもみたまえ,同じく小麦粉を水で溶いているとは言っても,つぶ
餡を使った金鍔の皮があんなにもったりしていたら旨いだろうか? もし皮だ
けを較べるならば,クレープのように,薄力粉の中でも最高にグルテンの少な
いものを使い,溶いた後に十分に寝かせて,グルテンの作用を極言にまで押さ
えるべきであろう。

 これは余談だが,日本ではクレープとかと名乗る餌が出回っているから,注
意しておきたい。厚さが5mm程もあり,グルテンがいやというほど出た生焼け
の生地に,外見上は生クリームに似た植物油脂を塗りたくって,クレープでご
ざいと言って出してくると,殴り殺してやりたいような衝動に襲われる。もち
ろん,皮には牛乳もブールノアゼット(焦がしバター)も入っていない[*1]か
ら,こくも香りもない。cr\^{e}peはブルターニュが本場だ。フランスのブル
ターニュはスペインのバスクと同様に保守的な地方と聞く。誇り高いブルトン
人が片仮名の“クレープ”を食べた時の衝撃はいかほどばかりかと想像する
に,民族テロが恐ろしくて仕方がない。ヨーロッパの右翼は日本のへなちょこ
右翼と違って,本当に爆弾を使うから大変だ。幸いにもサミットは九州・沖縄
で開催されるが,念には念を入れ,サミット期間中は東京のインチキクレープ
屋を閉鎖するべきであろう。

[*1]具との相性で,溶かしバターを使う場合もある。

 脱線してしまった。話を元に戻そう。長命寺の皮はもったりしていなければ
ならないが,かと言ってもったりしすぎてもいけない。もったりしながらも,
べっとりしてはいけないのだ。皮の淵はしなやかに,たおやかに立っていなけ
ればならない。そのために,小麦粉に寒梅粉,上新粉,白玉粉などを混ぜるこ
ともあるが,やはりそれ以上に練り方にコツがあるのだろう。また厚すぎても
いけない。皮の縁が舌先をするりと流れ,儚い歯ごたえでなければならない。
長命寺はよく噛んではいけない。刹那のうちに喉元を通らなければならない。
野暮の中に粋があるのだ。

 例えば,江戸前の寿司というものがある。保存食品を組み合わせてつくった
他愛もないファーストフードなのだが,手で握るというのが野蛮である。野蛮
と言うか,ドジンである。およそ調理というものを知っていさえすれば,型で
抜いたり,型で押したりするはずだ。ところが,江戸の寿司職人はこのドジン
の調理法を──ドジンのドジン的なものを──極めることにより,却ってドジ
ン調理法のドジン性を投げ捨て,粋の領域にまで到達したのである。

 長命寺は三枚の桜葉にくるまれている。京菓子ではこんなに破廉恥な真似は
しないであろう。破廉恥と言うか,ドジンである。関東の田舎菓子なのだ。し
かし田舎菓子も極めると,田舎菓子の枠を打ち破る。長命寺の寿命は長命と言
う割には短い。よくできた長命寺の皮はすぐに干からびてしまうからである。
よくよく厳選された三枚の桜葉の中になんとか瑞々しさを封印し,あらん限り
春の命を振りまきながら,いさぎよく散っていく。

桜もち
    食ふて抜けけり
        長命寺

──虚子

 長命寺の箱を開けると,もうそれだけで狂おしいくらいに春の香りが部屋の
中一杯に溢れる。箱を開けただけで春が来るのである。冬が終わるのである。
国際線の飛行機の中に長命寺を持ち込むのは,ドリアンを持ち込む以上に,白
トリュフを持ち込む以上に,自粛するべき行為なのだ。国際問題になるのは必
定だ。下手をすると戦争になりかねない。

 桜葉を三枚とも食べてしまう奇特なやつがいるが,野暮というものだ。外側
の二枚は外し,内側の一枚だけを餅ごと食べる。では,外した二枚の桜葉はど
うするか? 塩抜きしてから,蕪の葉の漬物に入れてもよし,米の炊き込みに
使ってもよし,吸い物の香り付けに使ってもいい。きちんと塩漬けされ,正し
く塩抜きされた桜葉は程よくあくも抜けており,素晴らしい香りを楽しめるの
だ。

 さて本題に入ろう。三年前の春,私は友人たちと花見を楽しんだ。その時に
友人の一人が持ってきたのが,とある店の長命寺風桜餅であった。なにしろも
らい物だから,私の財布が痛んだわけでもないが,一個三百円以上もしたそう
だ。

 これは味とは関係がないからどうでもいいと言えばどうでもいいのだが,皮
に色が付いている。道明寺の場合には道明寺粉の枯れた色ゆえに,食紅を使
う。だが長命寺の場合は,──全粒粉を使ってるわけじゃあるまいし──,そ
もそもそのままで純白なのだから,食紅を使う必要などない。桜の花に見立て
ているのだろうが,それにしては色が濃すぎやしないか。桜と言うよりは桃の
花のようだ。まぁ,これは愛敬だとしよう。

 問題は皮だ。これは本当にべっとりとしている。皮の淵が立っていないので
ある。しかも,随分と気前よく分厚い。噛むとぐにゃぐにゃしていて喉にすっ
きりと入っていかない。

 餡もきちんと二度漉ししてあるようだが,いかんせん甘すぎる。皮自体に砂
糖が含まれている以上,餡の甘味は加減しなければならないのにだ。
 しかし最もけしからんことに,桜の葉が一枚しか入っていない。しかもその
一枚に香りがない。その上,……しおれている。

 こう書くと,“お前は先刻,長命寺の寿命は短いと言ったではないか,お前
が食べた長命寺は昨日のものだったのではないか”と思う読者諸兄もいるかも
知れぬ。だが,私の友人はその当日にこの長命寺を買ってきたのである。

 私は興奮のあまり,薩摩隼人になって叫んだ。「こ,これは桜餅ではないで
ごわす,チェストー,チェストー」。

 私は心から思った。総ての自尊心ある人間は,こんなものを食べてはいけな
い。こういう紛い物を食べてしまっては,伝統的桜餅の保護など望むべくもな
い。どれほど腹が減っていようと,どれほど甘味が食べたかろうと,白い目で
見られようと,モモンガーと呼ばれようと,節を曲げてはならぬ。今こそ我と
我が身をなげうって,己れの信ずるものに殉ずべし。伯夷叔斉,首陽山に飢
え,屈原,汨羅の淵に沈む。ハァー,イヨォー。

 私がさんざ文句をたれながら,しっかりおかわりまでしたのは,言うまでも
ない。