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奥村『株主総会』コメント

神山です。

皆さん:
コメントのup遅れてすみません。ism-studyをはじめましょう。
気楽に意見、質問が出されるよう、私のコメントから始めさせて頂きます。字
数を減らすため、です・ます調は用いませんので、レジュメだと思ってお読み
ください。

佐々木さん:
中大関係の呑み会で、「奥村氏は結局彼の枠組を前提している、この枠組が問
題だ」と批判的なことを述べたら、さる先生から窘められたとおっしゃってま
したね。ここでは遠慮は要りません。以下参照して再バトルの準備をどうぞ。


奥村宏『株主総会』(岩波書店、1998年)をめぐる、今井氏の報告レジュメ
(99年04月25日 )および窪西氏のレジュメ(5月9日)をもとにしたコメント

キーワード;社会認識の崩壊(二元化)、講座派、段階論、所有による支配と
資本による支配、資本の能動性、物象化、人格化、私的所有とその止揚、私的
労働とその止揚、株式会社、所有の法人化と機関化、ハイエク、株主を通じた
企業規制、グリーンポートフォリオ、コーポレートガバナンス、PL法、企業の
公共性、資本主義の過渡期性。(実際には言葉として使っていないのもあるが
内容的にこれらがキーワード)。

目次
1 資本主義が現代の問題。なぜ株式会社か。
2 思考の破産から、システムの自己批判へ
(1) 奥村は時間と空間を恣意的に囲込む。局地化する思考の破綻。
(2) 「政治的幻想」の主体化
(3) 「事実」主義の欺瞞
(4) 奥村の帰結と展望

 以下では、奥村的思考「法人資本主義論」について、把握の際の、A「日
本」の孤立化、B「所有」の孤立化(起点化)、C「事実」の孤立化=枠組の孤
立化、の3つの孤立化とその破綻に絞って整理したい(上の目次の(1)から
(3にあたる))。

 1 資本主義が現代の問題。なぜ株式会社か。

 私なりに株式会社の問題圏を簡潔に確認することから始めてみたい。
 経営者の監視を問う「コーポレート・ガヴァナンス」論は、企業不祥事、外
国人投資家の増加、国際化との絡みで今や1つの社会常識だといっていい。こ
の議論の中心論点は、会社は株主のものか、多種多様な利害関係者のものか、
「公開会社は誰のもの」かを問う「会社主権論」および「監視」「チェック」
[*1]にある。自民党法務部会の委員会も「企業統治」に関して「商法」「改正
案」を発表したが、それは「株主利益の最大化」を謳いつつ、財界からの要望
を受け、株主代表訴訟の「適正化」を盛りこんでいる[*2]。建前は株主のも
の、実際にしているのは株主権の剥奪。商法に合致する建前としては、「株主
主権」でなければならず、しかし、効率的な資本運動にとっては、企業の分割
・統合の迅速化、ノイズ(配当、株主の意思)の少ない経営の必要などから、
株主主権は徹底して空洞化しなければならない、というわけだ。だが、私有財
産制度は、会社を労働者のものでないとする、資本自身の重大な前提なので、
看板だけは下せない。

 *1 末永敏和「コーポレート・ガバナンス」『ジュリス
 ト』第1155号、1999年5月、122ページ。
 *2 日本経済新聞、6月30日。

 同じことは、消費者問題でもいえる。施行から4年経つPL法も、訴訟は20
件足らずで、事故があっても、企業が個別に「和解金」プラス「秘密条項」で
解決するため表面化していないという[*3]。『週間金曜日』の「シリーズ 
買ってはいけないという」という営業妨害シリーズでは、商品の成分が「企業
秘密」だという例がよく出てくる。生産者も消費者も対等で、プライバシーは
守りあう、という私有財産制度の無内容な適用は崩れた。しかしかつ無くせな
い、のである。

 *3 朝日新聞、7月17日、夕刊。

 生産は、私有財産というスポットの中だから「覗くな!」。同時に、生産は
制御されない公共物だから、公共物として「開け」。どちらの局面も全体にな
りえない。全体は、相反する局面のなす1つのものである。一方が現実で他方
が私見・アイディアなのではない。あるいは一方が歪んだシステムで、他方が
完成した世界の潜伏、解放拠点なのでもない。およそこういう二元論は、社会
知の崩壊の一般的な姿にすぎない(20世紀マルクス主義もその1つ)。
 制御されざる公共物とは、社会化された生産である。しかし、自由な諸個人
のものとして制御されていない。会社だけではない。環境、世界市場、経済の
金融化と情報化、カジノ化、政治、科学、貨幣、など現代の諸問題は、すべ
て、社会的生産の姿であり、誰のものか問われているのである。この問題の起
点はどこにあるのか。貨幣である。貨幣がこれらの社会的生産の姿を自分の増
殖に結びつけながら、これら公共性について「誰のものか」問題化しているの
である。貨幣とは、人々の孤立と自由を支える、彼等の連続性なのだが、彼等
はこれに責任を持たない。「マネーの暴走」とは、連続性の力の暴走であり、
「企業の暴走」とは、マネーの自己増殖に寄せられた人々の集合力の暴走であ
る。社会を編込むこういう貨幣を「資本」という。とするならば、およそ、21
世紀問題と名づけるべき問題群は、すべて資本主義の問題である。環境と資本
の対立(地球規模での科学的制御を可能とする柔軟かつ機動的な合意の在り方
が要請されつつ、産業の惰性的利害、生産性の世界的な不均等な配分、不況と
なれば環境問題より雇用問題が深刻化する成長主義的産業システム、が制
限)、資本の姿としての「市場」の暴走(投機活動による国民経済の破綻、
「グローバル」化・「メガ・コンペティテョン」の展開、一国社会主義ならぬ
一国福祉国家の解体)、「企業」の暴走(企業が政治を買う、株主の疎外=主
権者の不在の世界)など。こうした問題をすぐれて、今井さんも言うように
「個別資本」、の形として露にするのが株式会社なのである。
 21世紀問題は、「近代」の問題設定の復権である。
 21世紀に、物理時間として時間が経過すること、社会的事情としても新たな
複雑化や形態化が現れることは、それ自体として社会システムの運動原理の転
換ではない。それらはシステム枠組の「契機」にかかわるのだ。「マルクスは
デリバティブを知らなかったので古い。枠組を捨てよ、新段階の理論を作れ、
理論をやめよ」。こういう言草の特権性と不毛さこそ20世紀をかけて知るべき
ことであった。
 マネーや企業の力とは、近代の自己意識に対して、疎外されて形成される社
会実体のことだ。この実体の再獲得こそ近代の社会解放の課題である。これこ
そ、マルクスが、初期に「政治的解放から人間的解放へ」と宣言し、資本論で
「天賦人権の楽園」自由な私的所有から資本主義的な取得法則への「転回」と
呼んだ内容にほかならない。
 国王の正統性が崩壊し、人々は、新たな国家枠組を作り、国王の支配から自
由になった。政治的国家から分離した、自由な市民たちの社会が成立した。し
かしこれが転回して、自由な市民たちの社会における国王であるマネーとその
姿としての企業、これの正統性がいま問題化しているのである。
 より細かく言換えよう。A個別性。王権としての共同体(命令を介した社会
的生産)を喪失することで、個人は個人として解放された。自由な商売の発展
にとって、王権的所有は邪魔である。人々は、自分の労働にもとづく私有財産
の持主として、自由な市民である。私有財産は自由の源泉という考えが成立
つ。あらゆる個人は、労働者も株主も、資本家も、この自由な個人である。哲
学上は、デカルト的自我、社会実践上は、個人たることを楽しめる孤独な近代
人(野蛮かつ無媒介な集合人でない)はこの自由な個人である。交換は国家を
前提せず、人を自由な法的人格にしたが、しかし交換の流通への全面化は、交
換という由来を消し、主権在民システムの想定に屈折して、人を自由な主権
者、人権主体にする。この個別性という項そのものを否定すると共同体主義へ
の逆戻りである。B普遍性。近代的個人の対極の、彼等の社会基盤、連続性
が、交換から生まれる貨幣である。Cしかし、貨幣が想定する私的生産を、貨
幣が自ら自分の過程として立てるとき、その私的生産とは、買ってきた労働力
の組立てを含む。金儲けのため、従業員組織が成立してしまう。貨幣の持主の
プライバシーの中に、何と、生きた個人(もちろん社会的な個人としては社会
は近代的自由人として認知する)の共同空間、公共的な空間ができてしまうの
だ。資本を守ること、即、私有財産制度の空洞化である。経営者支配現象は、
株式会社で定着するが、株式と関係無く、可能性ならすでにある。私有財産の
承認は、労働を想定するだけで、そこから浮き上った単純流通でなされるか
ら、はじめから、私有財産の境界壁とは、労働世界そのものという中身に無関
心だったわけだ。D私有財産の外側で、共同空間を深化するのは、この資本の
展開の媒介である。工場法、社会保障、教育、社会資本、ケインズ主義国家、
福祉国家。E株式会社。私的所有者をなしている社会的な関係性を、株主、法
人、経営者、というように解きほぐして、株主の総会を立てて株主の総意のも
とに統一する、これが株式会社であるが、資本運動の展開はご主人様の株主を
単なる資金源に貶め、不要のものとしてしまう。しかしこのせいで、不断に資
本は自分の正統性が揺らぐこととなる。会社は株主のものだった、しかし、今
は株主のものではない、持主がいない生産は誰のものか、と。資本にとって株
主は大前提である。株主のものでなくなったら、私物から、たちまち公共物に
なってしまい主権在民システム(唯一の合意による統合システム、共通了解)
によって直に規制されるからだ。労働する諸個人は、自分の合目的的な対象的
活動の媒介性を、他人たることによって媒介する。彼等の対象も活動も組織も
普遍性も全部他人のもの。労働力の自由な私的所有者、自由な契約主体として
登場した労働する存在に対して、自分の労働力も、それと生産手段との結合
も、他の労働力との連結も、すべて自己ならざる巨大な力だ。この点、株主の
役目がないと困る。株主、会社財産に貼られた目に見えない所有権のラベルの
法的源泉。株主、工場を運転している労働者に対して「これはあなたたちのも
のではない」とする約束の源泉。しかしまた資本は困ったことに、労働者共同
体がないと、自分を肥大する神聖な仕事(人類の福祉根拠としての生産力形
成)ができないのである。ところがすばらしいことに、自分を批判する人たち
が「共同決定法」などといってくれるので、株主権のことは忘れていられる
(逆に、ハイエクみたいな個人株主主権論は過激すぎて机上の空論)。あんま
り共同決定などといいだしたら、株主権を持出して、「会社が労働者のものだ
なんて、泥棒だ!労働者には給料払ってんだぜ」といえばいい。しかしこの資
本の自己媒介こそまた、資本の自己崩壊の高次化である。F個別性と普遍性と
の分離、相互の形成、そして媒介された再統合という課題。公共性とは、共通
母胎であり、自由な個人の開かれた共同空間である。しかし株式会社に露出し
た公共性は、そうなっていない。自由人とは株主だけか。生産の公共的なもの
は生産する諸個人という自由人のものでないのか。個別性である自由な個人は
株主という孤立した姿にこだわり、公共性を株主共同体という部分的な姿でし
か認知しない。しかし、公共性としての承認は進まざるを得ない。会社は株主
のものか?公共化しながら公共化せず、自由な個人が自由な個人であるのに公
共性から疎外されている。私有財産制を前提したその否定、資本主義を超えな
いと実現しないが資本主義の中で進んでいく私有制解体の傾向、私有における
私有の崩壊、いろいろな言い方ができるが、資本主義が社会を創る上での「一
時的」な通過点であること(社会ができていない以上、人間の社会形成とは、
労働という自覚的社会産出を、非自覚的にすること。考えながら社会を創るわ
けではない。貨幣への愛によって出来ちゃった。これが暴力的な分身だ。これ
を真の自分の分身にしよう、ということ)が見られるべき本体である。
 
 2 思考の破産から、システムの自己批判へ

 以下では、今井さんと窪西さんのレジュメに依拠して考えてみる。

 (1) 奥村は時間と空間を恣意的に囲込む。局地化する思考の破綻。

 奥村的思考の第一。日本特殊性論の破綻。奥村は、日本を空間的に孤立化・
局地化する。

「日本資本主義批判をベースにして資本主義批判をするのか,それとも資本主
義批判をベースにして日本資本主義批判をするのか。一言で言って,日本資本
主義批判をするのか,それとも資本主義批判をするのか」(今井氏レジュメ。
以下IMAIと略す)

>第一に,株式会社の空間的な特殊性が問題になった。著者がこの著書を書い
た真の意図──資本主義一般を批判するということが目的なのか,それとも日
本の資本主義を批判するということが目的なのか──ということが問題になっ
た。報告者は基本的には後者の側面からこの著書を理解した。また,その側面
から,日本資本主義の特殊性に目を奪われたあまり,資本主義一般において株
式会社が占めている位置を見失っていないかと,報告者は奥村の主張を批判し
た。しかし,このような態度はそもそも一貫し得るものではなく,奥村自身,
しばしば前者の側面から資本主義一般を批判している。
(ism-study[2]。以下[2]と略す)

  奥村の議論は、日本では、資本自由化に伴う乗っ取り防止のため、法人が相
互持合をするようになり、法人資本主義となったことが、問題である、という
のが基本線だが、これでは、完結しない。そもそも、法人が株主として持合す
ることができるのも、個人株主が支配できない可能性、法人という形での資本
の強大な力を前提しており、このことは、法人持合のないアメリカ合衆国でも
同じである。そこで奥村はバーリに言及せざるを得なくなる。資本主義一般か
ら分離した特殊日本は存在しない。彼の議論は振動せざるを得ず、読み手も混
乱せざるを得なくなる。
 諸個人の法的な振舞いによって、無限に私的所有が生まれ、会社が生まれ、
かつ死絶えて存在しないもの、過去のものになっていく。封建的な生産のなか
でも、商人たちの会社結合は生まれていた。日本でもアメリカでも会社は日々
結成され、各国民的な行動様式を介して存立している。しかし、こういう会社
という関係自体は、自己再生産するものではなく、自分の外の再生産根拠に依
存している。逆に再生産は、自分の外の会社によって再生産されるのではな
く、これを自分の前提として位置付けて、自分の循環に捕える。このような循
環するものが、資本、過程する貨幣、過程を捉えて自己増大する貨幣であり、
このユニバーサルなものの運動によって、労働を捉えるこの運動の仕方も、会
社のようなこの運動の外部の諸関係も、この運動に適合した姿に淘汰され、姿
を規定され、ていく。資本は自分の外の関係を自分の関係として規定する力で
ある。資本一般も、資本主義の一般的、必然的な諸姿も、存在世界の関係であ
る。逆に日本的なものはその実現諸条件(一般そのものが存在するわけではな
い)として区別される[*4]。そもそも共通のものなしに区別はできない。しか
も、資本主義一般の諸傾向は、単なる頭の中で見比べた共通性、一般モデルで
はない。理論イコール机上のものと考えるおばかさんは、学生よりもむしろ学
者の中に多数派である。一般から切離して特殊のみをモデル化すると、レギュ
ラシオンの調整様式の違いのモデル、講座派の「型」、より不鮮明に、奥村の
オリジナルな手作りの「法人資本主義論」となる。
 資本主義の時間も空間も、資本が社会総体を編成する運動の在り方にすぎな
い。「文明化」「近代化」「現代化」「生産の社会化」「個人の陶冶」「成熟
社会」、いろいろ表象できるが、運動の本体、資本という生命から、手や足で
ある法人企業、国家独占など、切離して、任意の空間を設定する思考は、仮説
としてしか意義を持たず、地域比較や段階論を、資本論(総体性論)と同格に
する思考は、一見手堅く見えるので研究者が陥りやすい。奥村は資本の運動を
事実上問題にしながら(real capitalとしての会社)、資本概念が抜け落ちて
いる。
 資本の運動の絶えざる反復が、諸姿を、自分に適合した姿として規定する。
個人的私有財産は、資本にとって制限である。これを突破するのが、利子生み
資本、土地所有、そして生産単位そのものについて、株式会社である。所有者
と経営者とが別人になること、所有と機能の分離が株式会社の株式会社の概念
にあった在り方である(タコ社長になりたがる人間はなくならないが、企業集
団のトップ企業にタコ社長は留まり得ない)。だが、これがまた、資本の限界
[*5]を示してしまう。資本増殖は結合労働者が担う。資本家は資本の自己増殖
機能、監督等再生産の実質的媒介(労働)から疎外される。資本家は要らな
い。と、持主なき社会化した生産は誰のものか、ビジネスの正統性が問われ
る。「自分の労働による私有財産」という正当化基準は、株主の取得も、会社
自身の蓄積も、不労所得として映し出す。資本が人格に対立するものとして自
立性を露出する。法人は個人に敵対する[*6]。従業員組織は自己収奪機構であ
る。株主総会は形骸化し、株主の権利が剥奪される。良識ある人民が株主とし
てコントロールするから、株式会社は不当な王権とは違うはずであったのに
[*7]。

  *4  「諸物象の人格化の現実化形態は空間的(国ごと)・時間的(時代ご
と)に様々に相異なる。このことは,ヨリ特殊的に株式会社という法制度的な
(juristisch)形態,すなわち法制度的な形態としての株式会社についても,
ヨリ一般的に社会的なシステムという制度(institution),すなわち制度と
いう姿態で現れる限りでの社会的なシステムについても,妥当する。それ故に
また,問題は資本の一般的理論における株式会社の意義である」(IMAI)。株
式会社は直接には資本の人格的媒介様式である。
 *5 「このように,資本は自己の限界(Grenze)を制限(Schranke)として
乗り越えるのであるが,正に制限を乗り越えてしまうということによってこ
そ,自己の限界を暴露してしまうのである。…制限突破の形態は新たな制限で
あり,しかも自己解体的な制限である」(IMAI)。
 *6 「われわれの立場から見ると,「支配」しているのは経営者ではなく,
資本そのものである。ここでわれわれが「経営者支配現象」という名辞を用い
るのは,単にそれが大いに普及しているからであるのに過ぎない。議論に前提
される表象は,大規模公開株式会社としてイメージされるものにおいては,
エージェントがプリンシパルから自立化しているということ,しかしまたそれ
にも拘わらず,プリンシパルがエージェントにとっての制約になっているとい
うこと──これだけである(要するに,会社は株主のものでありながら,実際
には株主のものにはなっていないという,現代人は誰でも抱いている表象だけ
である)。それ以外の特殊的な表象(或る会社では悪徳資本家がいるとか,或
る会社では経営者と資本家とが一致しているなどという表象)は,公共的な議
論にとって妨げにしかならない」(IMAI)。
 *7 自由な私的所有ととも生れている自由な諸人格を人権主体としての市民
と呼ぶならば、神・王の専制を脱却した近代社会は市民社会であるが、株式会
社が市民社会において認知される仕方も、自由な私的所有者である株主が完全
にコントロールしていると想定されることによっている。株式会社の市民社会
への統合は、「株主総会を、最高にして万能な機関とする」「所有による経営
のコントロール」「近代法的コントロールシステム」(新山雄三「企業文化と
『公正性』」『法律時報』71巻7号通巻880号、1999年6月、75ページ)に依拠
する。

 奥村も、日本特殊で完結せず、アメリカも経営者支配だ、という(「株式会
社形骸化は欧米でも共通している」窪西さんレジュメ。以下KUBOと略す)が資
本に即して捉えていないので、なんだかようわからなくなる。

 (2) 「政治的幻想」の主体化

 奥村的思考の第二。「法学的」な堂堂巡り。

 「法人所有に基づいた経営者による支配」。「法人大株主である会社の経営
者が相手の会社を支配している」(テキスト、137ページ。以下ページのみ記
す)。

 「法人の株式所有が諸悪の根源だ」(KUBO)。
 「日本の会社支配の最大の問題はこの法人所有にあり」(35頁)。

 奥村は、経営者支配を説明するのに、法人所有から出発するが、ちょっと待
て。この説明だと相手の法人企業はすでに経営者支配になっているぞ。トート
ロジーではないか。
 そこで、奥村は、所有にまつわる歴史上の法的事件を持ってくる。「独禁
法」の改正である(145−149ページ)。
 しかし、これも所有者支配の力を前提にしている。「支配証券」(138ペー
ジ)として系列子会社を支配でき、持合の場合は、経営者が相互信任しあう。
 結局、

 日本の会社は「社長」が後任を自分で決める。「日本のコーポレート・ガバ
ナンスの特異な状況」(39頁)。
 「日本の経営者には個人主義の観念がなく、…責任観念が欠如し、無責任経
営が生まれてくる」(41頁)。「誰からもチェックされない経営、それはまさ
に経営者天国であるが、法人資本主義の日本でそれは全面的に開花した」(42
頁)。

と、前近代的な身分制により株主総会が社長の面子を守る形骸となってしまっ
たいうことが強調される。反封建的遺制の残存か(窪西さんのレジュメの川鍋
先生の議論、見てください。川鍋さんの「ヤクザ資本主義」とは賛美すると中
谷巌の「和の資本主義」になります)。これはまた政治史のような御伽話であ
る。「ビルの会社の内部は日本企業とおなじく、(民主主義ではなく)階層構
造をもつ専制支配の体制である。もちろん身分制度ではない」(KUBO)。
 「経営者支配」は、バーリのように株式分散から説くもの、ヴェブレンのよ
うにテクノクラシーとして説明するもの、などある。株式会社形成の史学的な
説明は、「株主総会」は大株主の隠れ蓑として出来た、株式会社は出資者が支
配しながら金を集めるためにつくった、とする出資者史観によるものが普通で
あり、株主総会の形骸化も、資本多数の原則から、株主間の格差から説く。し
かし、形骸化は、株式が分散していなくても、格差がなくても、さらに法人所
有がなくても、またヤクザ資本主義でなくても、起りうる。株式会社の形態そ
のものにおいてありうる。株式分散型でも、機関所有でも起きるということは
さらに、それらの前提として、資本運動が形骸化を自分の手段にするからであ
る。
 奥村の場合。

 「第2章では,奥村は株主総会形骸化=経営者支配の原因を明らかにしよう
としている。その際に,奥村はバーリ・ミーンズ以来の伝統に立って,結局の
ところ,株券に──擬制資本に──それを求めようとしている」(IMAI)。
 「法人への株式集中:日本でもアメリカと同様に経営者支配が確立してい
る。しかし,経営者支配が確立したのは,アメリカでは個人に株式が分散した
からであったのに対して,日本では法人──特に大企業──に株式が集中した
からである」(IMAI)。
 「奥村は経営者支配現象をreal capitalとしての株式会社が生まれつきもっ
ている本質としてではなく,株式会社によって──しかも株式の,つまり擬制
資本の大量発行を通じて──ようやく措定される形態として把握している。こ
こでも,奥村は経営者支配現象の究極的な原因をを株式会社の大規模化に──
その限りではreal capitalとしての株式会社の本質に──求めている。しかし
また,単なる大規模化によっては経営者支配現象は発生し得ないというのが,
奥村の(あるいは通常の社会諸科学の)経営者支配現象論のポイントなのであ
る。奥村にとっては,経営者支配現象は会社(real capital)の大規模化が株
式(fiktives Kapital)の大量発行に至った時に初めて発生する。言うまでも
なく,このような把握態度は過去の歴史的形態の把握態度としては正しい一面
を──しかしまた単なる一面を──含んでいる。ところが,奥村が問題にして
いるのは,正に,過去の歴史的な株式会社ではなく,現在の株式会社なのであ
る」(IMAI)。

 結局、奥村は、経営者支配を現実化するのは、株式の大量発行としている。
 今井さんは、ここに、私有制を国家権力の力で潰して国有化へ、説いた幻想
的社会主義、所有の変革によって社会総体が変ると夢見る思考を、見出す。
 「生産関係の基礎が所有関係にあるという見解は優れてスターリン主義を特
徴づけるものであるが,しかし,左翼(マルクス主義)の内部ではスターリン
主義であろうと反スターリン主義であろうとも,また社会常識の内部では左翼
であろうと右翼であろうとも,非常に広く通用している」(IMAI)。

 奥村は生産から把握しないので、私的所有の止揚には法人所有として着目す
るが、生産過程内の私的労働の止揚を掴まない。私的所有の問題は、私的労働
の止揚を社会に公開する。長くなるが今井さんから引用する。

「現代社会は,単純な商品流通としてわれわれの眼前に現れてくる。単純な商
品流通の諸表象──自由・平等・私的所有──こそが現代社会の自覚的原則で
あり,正当化論拠である。しかしまた,そのような社会的・必然的な単純商品
流通はその背後に生産を想定せざるを得ない。単純な商品流通が想定するの
は,私的な自己労働に基づいて生産物を私的に取得する個人的な私的生産者た
ちの社会,一言で言うと商品生産者たちの社会である。…個別的な交換過程で
個別的に,商品所持者たちは私的所有者として相互的に承認し合う。次に,た
だこのような個別的な相互的承認の社会的な連鎖の中でのみ,彼らは私的所有
者として社会的に承認されているのである。商品生産者たちの社会では,個別
的な商品所持者たちの方が承認し合うのであり,これに対して社会の方はこの
事実を追認するのに過ぎない。私法においては,個別的な私的行為が法律行為
として妥当するわけである。このような仕方で毎日まいにち発生している所有
が個人的な私的所有,一言で言うと私的所有なのである。このように,商品生
産者たちの社会としての現代社会の基礎は私的労働(私的な自己労働)であ
り,またそれに基づく私的所有(個人的な私的所有)である。このような側面
で,現代社会は商品生産が行われている社会,市場社会,自由主義社会である
(その政治的な表現が民主主義社会である)。/しかしまた,現代社会は資本
主義的な商品生産が行われている社会でもある。資本主義的な商品生産は商品
生産の最も発展した形態であり,商品生産の必然的な帰結であり,単純な商品
流通の諸法則に完全に準拠して発生する。それにも拘わらず,資本主義的な商
品生産は先ず私的労働を止揚し,それに基づいて私的所有を止揚する。この両
者を通じて,資本主義的な商品生産は私的生産を止揚する。資本主義的な商品
生産は社会的な生産──始めには個別的資本の内部での社会的生産,やがては
個別的資本の間での社会的生産──を展開する。一言で言うと,資本主義的な
商品生産は商品生産を止揚する。逆に言うと,商品生産は,自己の最も発展し
た最も純粋な形態において,自己を徹底的に否定する。…/私的労働こそが
──しかも個別的資本の直接的生産過程の内部での私的労働の止揚こそが──
私的生産の止揚の出発点である。但し,資本主義的生産では,私的労働の止揚
は物象的形態において──他人の労働として──成就される。いや,それどこ
ろか,私的労働の止揚はそれ自体として物象化の進展そのものである。これに
対して,私的所有の止揚は,優れて物象の人格化において,私的労働の止揚を
暴露し,必然的にし,制度的に固定化する。/ 株式会社は正にこの私的生産の
止揚の延長線上にあり,その最高の形態であり,そのことによって資本の通過
点的性格を暴露している。だから,株式会社論は私的所有の止揚に先行して,
私的労働の止揚によって基礎付けられなければならない。これに基づかない株
式会社論は私的所有の止揚の理論としても無意味である。但し,株式会社形態
を株式会社形態にする形態的な本質は,正に私的労働の止揚が当事者意識に対
しても暴露されているという点にあり,それ故にまた私的所有の止揚にある。
/奥村に決定的に欠如しているのは,私的労働の止揚から出発するという点で
ある。彼は正当にも私的所有の止揚──但し法人所有というその特殊的な一形
態──に着目するが,そこから私的労働の止揚に遡ろうとはしていない。だか
らこそ,──奥村は自己の主張を徹底していないとは言っても,結局のとこ
ろ,もし彼がそれを徹底するならば──,彼の場合には,法人所有という所有
形態の単なる解体が,それだけで,バラ色の未来を齎すはずなのである 。奥
村の主観的な意図には関わりなく,客観的には,奥村は,“生産関係の基礎は
所有関係であるから,もし所有形態が単に変革されさえすれば,バラ色の未来
が齎される”と主張する最も見苦しいスターリン主義者(あるいは──これは
左翼的スターリン主義者の右翼的別名であるが──新自由主義者)そのもので
ある」(IMAI)。
 
 なお、日本の法人所有とアメリカ合衆国の機関所有との違いも、今井さんの
レジュメにあるように(UII1)、資本は現象し、その自立化を露にするので
あって、機関所有にしたってエージェントはプリンシパルから自立化するので
あり、量的な差にすぎない。

 ちなみに、機関所有によって所有による支配が復権したかのように説く論者
がいるが、機関所有はその否定を前提しているのである。機関がモニタリング
するのではない(奥村127‐128ページ、見よ)。またちなみに、森岡孝二が株
主による企業監視について述べていた(朝日、7月20日、論壇)が、環境に
やさしい企業の株を投資家が買う保証はない。環境にやさしいということが経
済数値に表れると素直に想定することが物象化の信奉である。無知な投資家
に、環境にやさしい企業の株を買わせて、もし株価が下がって大損したらどう
するんだ。とはいえ、企業が不祥事を起すと、その企業の株価が急落すること
もよくある。これも疎外の枠内での疎外の止揚。市場が企業を監視するなん
て、市場ってなんてすばらしいのだ。いつから市場が政府になったんだ。

  (3) 「事実」主義の欺瞞

 奥村は「事実」主義のようだがそれは完結せず、法人所有の特殊な枠組から
事実を拾って解釈しているのである。日本の会社の全部を覗いたわけではある
まい。覗いたって覗ききれない。所詮は主観の構成物と開き直るか、理論は事
実の反映だが、事実を一定程度集めればよい(どれくらい?)、とか認識は対
象に近づけるが完全には知ることできない、とするか。すべて、問題の立て方
が間違っている。枠組自体の存在性格が問われねばならない。所有の、存在に
即した批判的認識は、所有の事実をすべて知るという悪無限的態度でない。消
滅する事実の存立を許しつつ、仮説的アプローチの対象領域を許しつつ、所有
の事実の存立する領域、所有という関係を、存在に即して、労働する自己の振
舞いに媒介して把握するのである。

 (4) 奥村の帰結と展望

 >結局のところ奥村の展望は株主総会の活性化にあるのか,それとも大規模
株式会社の解体にあるのか([2])。

 「そもそも著者はなぜ株主総会を活性化せねばならないと考えているのか、
よく分からない。…/情報公開は株主にとって、投資保護のために必要であ
り、今後進まざるをえないだろう。だが、それが株主総会活性化につながるわ
けではない」「「株主主権、株主平等、資本多数決」が根拠を失いつつあるの
だとしたら、協同組合の所有者主権・所有者の平等・財産所有者の多数決も根
拠を失いつつあるのではないか(労働者協同組合の場合は事情が異なるが)」
(KUBO)。

「*16 第一に,奥村の短期的な政策目標として解釈され得る株主総会活性化
については,なるほど彼は「株主総会を活性化するためには,会社のあり方そ
のものを変えていく以外にはない」(第176頁)と主張してはいる。しかし,
われわれが「会社のあり方そのもの」の変革(突き詰めて言うと,生産関係そ
のものの変革)として奥村の主張の中に実際に見出し得るのは,結局のとこ
ろ,ただ株式の法人所有の禁止(所有関係の変革)だけである。…/第二に,
奥村の長期的な政策目標として解釈され得る大規模株式会社の解体について
は,奥村は更に一層,動揺している。しかし,ここでもやはり,もし奥村が自
己の主張を一貫させるならば,大規模株式会社の解体もまた所有形態の変革と
イコールであると,われわれは判断せざるを得ない。先ず,既存の大規模株式
会社そのものの解体については,微妙な表現ではあるが,「日本の会社の分社
化,別社化が本当に分権化を目的にしているのなら,これを完全に独立の会社
にし,親会社による株式所有をやめるべきである」(第207頁)と,奥村は主
張している。次に,既存の大規模株式会社にとって代わるべき新しい小規模企
業の生成については,奥村は「様々なタイプの新しい企業」として合名会社,
協同組合,郷鎮企業などを列挙している。しかし,それらの区別も,奥村の主
張の中で理論的に正当に位置付けられ得る限りでは,すなわち単なる規模の大
小を越えるものであるなれば──そして単に規模が小さいのに過ぎない小企業
は「新しい企業」では決してなく,そうではなく,われわれが今でも既に日常
的に目にしており,しかも今日の大企業体制を底辺で支えている“古くさい”
タコ社長企業である──,やはり所有形態の単なる相違であると,われわれは
判断せざるを得ない。/言うまでもなく,私的所有の止揚の問題──従ってま
た所有形態の自覚的な変革の問題──は,正に社会意識相関的であるからこ
そ,常に運動の出発点であり続け,常に運動のスローガンであり続ける。生産
関係の変革は,常に必ず,所有関係の変革によって自覚化されなければならな
い。──「これら総ての運動において,共産主義者は所有の問題を──それが
とっている形態が発展していようといまいとも──運動の根本問題として強調
する(Manifest, S.451)。「この意味で,共産主義者は自己の特徴を,私的
所有の止揚という一言で纏めて表現し得る」(a.a.O.,S.430)。しかしなが
ら,それは実在的労働過程そのものと現実的生産関係そのもののとの資本主義
の枠内での変革の社会意識相関的な表現であり,それ故にまた実在的労働過程
と現実的生産関係との根本的な変革のために必要な宣言だからである」
(IMAI)。
 短期的には、株主総会活性化を。長期的には、大きな株式会社は存続し得な
い。だから、「大企業解体」を、である。株式所有を通じた親会社による支配
をやめ、かつ協同組合のように、新しい企業でなければならない。これが奥村
の解放論の帰結の核に思える。
 所有が変革されるのは生産が変革されるからである。しかし、奥村は生産の
共同連関のありようでなく、会社形態そのものに拘らなければならない。
 所有による変革はじつは全く変革でない。所有解体としても奥村の議論は目
の前にあることを追認してるだけではないか。株式会社は真なる存在か。否。
経過的なものである。といって所有の解体から革命を導き出すのは顛倒であ
る。資本という生産の在り方が、所有関係をつなぐ魂である。資本の無媒介な
解体はできない。所有関係の解体でも資本は死なない。そんな解体ができるな
ら資本は死んでいる。生産という内容を変えるべく、諸関係の制御をするこ
と。自由人の社会的生産の合意を生産の契機にすること。奥村の拘る小企業
は、大株式会社の解体か?親会社の支配以前に、株式会社という形態そのも
の、所有形態そのものの解体はどうなっているのか。分社化の目的は「分権」
ではない。経済効率から、分社化の際、株式所有が利用されているので、これ
が所有の原則(個人主体)の解体となっているのである。奥村の短期視点と長
期視点が大体分裂していると思う。


 以上、扱えなかった点はたくさんあります。報告者の方々、お許しくださ
い。以上は、発言のきっかけとして、全体に関するコメントめいたものを述べ
た次第です。