本文


 今日は、神山です。今井さん、皆さんごきげんよう。

 皆さん、気軽に投稿しましょう。私も、自分で分っていないことばかり
書きこんでます。分っちゃったらおしまいですからね。
 人格が、今井さんによって問題にされてます。
 いろいろ考えるところたくさんあるのですが、ごく簡単にコメントつけ
私の見解をのべてみます。

>  俺が問題にしたいのは,私的所有者が人格であるという時の,“人格”の位
> 置付けなのですね。これは人格がペルソナ(仮面)であるのか,実践的な社会
> 形成主体であるのかということにも関わってくる。労働の場面では,労働する
> 人格と労働(力商品)の人格化との対立という形態で鋭く問題になってくるの
> ですが,単純商品流通を見ている限りでは出口がないわけです。
 
 
 単純流通は幸せな世界ですね。とりあえず、みんな自由な自己決定する
個人です。
 法的な人格は、自由な実践的な社会形成主体です。しかし、その内部論
理では総体システム(唯一の合意原則)でも、総体システムにはなってい
ません。根源的に自己再生産するような社会形成運動は、労働であり、こ
れを材料にしている資本、これに法的人格は依拠しています。資本は法的
人格なしでは成り立たず、それを自分の再生産に結び付けますが、法的人
格は資本を自分の条件として想定しそれを再生産するわけではありません
。 しかし、法的人格は全世界であるがゆえに、その社会実践的関係行為
によって規制されない関係が現れたならば、自己同化しようとする。資本
は法的人格の関係行為の規制の及ばない、法的人格の限界として、限界の
向こうの生産として、露出する。矛盾はリアル(評価や願望ではない)。
自由人は分裂を許さず、総体システムでなければならず、労働は総体シス
テムだが、分裂している。で、自由人の固持でも解体でなく、生産と合致
している自由人が、全面化すべきシステムである。
 法的な人格が単なる仮面であるということは、法的な人格の概念に反す
るので、これは物象的な関係です。自分でないものに操られている人格は
、人格だが、人格ではありません。共同体に操られている人格、貨幣に操
られている人格。欲望を満たすべく行動する法的人格が、商品の自己に連
関に位置付けられています*[1]。物象が法的な人格を自己の人格化とする
わけです(商品の人格化)。法的な人格がかく分裂的なのですが、単純流
通では、法的人格と物象的世界とがすみわけして平和に媒介されてます。
社会的実践関係行為は、法的人格の自由な主人公としての社会的合意、人
格の客体の総体化運動、その運動に転換されている、人格という形式の否
定された再生産根拠、というように。
 しかし、法的人格は労働に反射するとそういってられません。社会の自
己意識である法的人格は、自己意識の自由は、私的所有者でありながら、
自分の所有物である労働力と生産手段との合体物が、他人の力として自分
たちを規制してくるのを経験します。自分の生産が、境界線の向う側の生
産。資本家も資本の歯車になりはてます。株主としての資本家も、会社の
自立性として自分たちの支配物が逆にさからってくるのを経験します。
 しかし法的人格は知らん振りをもします。法的人格が、この労働に反射
する眼差しを断ち切られたまま、影の世界で人格否定的な世界が運行する
ならば、人格的自由のこの孤立性は本質の遮断です。これを押し付けるの
が、自由主義イデオロギーでしょう。
 で、生産が共同的で公共的であることも法的人格の目にさらされ、生産
の人格性、共同性も形成されます。が、自由な私的所有のおかげで自由な
法的人格、という世界の孤立を他方で許してしまっているような、生産の
公共性は、変革と結びつきません。人格と公共性が分裂、人格が分裂、公
共性が分裂、したままです。システム内の反システムを、生産の社会化と
いい、労働者階級といい、生活世界といい、市民といい、人格といい、何
と呼んでも、総体を捉えず、すべて願望、道徳論議(立上がれ)になりま
す。あるいは絶望。

 *1 物象化というと、物がロボットみたいに動くとか、人格化というと、
少年が変チンポコイダーに返信するみたいに、あるいは、ほんとの擬人化
みたいに、直接的にイメージする経済学者がいますが、かわいそうですね
。 

>  さて,神山さんは“ism-study.5] Re: On "Kabunusi Soukai"(OKUMURA 
> Hirosi)”(1999/07/22,16:31)の中で次のように述べています。
> 
> >かなり一般的。人格とは、自由な自己意識ということ。
> 
> このような「一般的」な規定をした後で,神山さんは“特殊的”に「商品生産
> の自由人」について次のように続けています。
> 
> >法的規定としての自由、人格は、ここに
> >なりたつ。

 人格とは、労働の媒介性に位置する概念だとかんがえています。人格が
出発点なのではない。しかし、労働は人格的に媒介され、人格を自己の契
機にしています。生き生きした個体性。
 労働の産物は人格性の発露です。自己と対象物との相互承認。しかし商
品生産では、産物とそれをつくった人格とは疎遠です。
 人格的、とは社会的に媒介されている、ということです。孤立的な生産
は、人格的ではありません。相互承認がありません。人格の関係が成り立
ってません。人格であることは否定されてます。この生産の社会的に依存
しあう側面は、商品が担います。商品が人格です。(生産における人格的
関係が物象の関係になってます。別に生産の中に人格なるものが潜在して
それが物象に変身するのじゃありません)
 でも直接には人格じゃありません。権利主体としての個人を自分の権利
主体に捕らえます。商品は自分の五感を持たなきゃならんのよ。商品の自
己実現である交換、ここで当事者の社会接触が、人格性が、共同体を想定
しない自由な振舞いが、商品の手段になります。
 ついでに、賃労働ですが、これも当然、人格性を否定された自己対立的
な裸の労働で、人格として立上がらず、賃労働を自己労働化している私的
生産も人格として立上がらない、というわけです。

>  問題は,この法的人格[*1]と,最初に出てきた人格──神山さんの定義では
> 「自由な自己意識」──との関連なのです。“人格とはそもそも法的人格とし
> て通用するペルソナ(仮面)なのだ”と考えると,廣松さんのように“類的本
> 質なんてのは虚構の主体なのだ”ということになってしまいます。ですが,法
> 的人格として通用するペルソナ(仮面)は物象の人格化でしょう。それではほ
> かならない物象とはなんのことなのかと言うと,人格の物象化だということに
> なる。それじゃぁ,一体,物象化するべき人格はどこから出てきたの? ──
> これが俺の問題意識だったのです。

 広松は、自由な人格を社会という対象から追い出し、自分だけが自由な
人格だとしているのです。これは、私的所有の捨象です。変革論としては
、広松の嫌う当のものです。労働者は商品だが自己意識なんでござるよ、
という疎外革命論、労働者だって人間なんだ、という人間主義、現場主義
、無媒介な階級主体論、これがいやならルンペンによる革命(いやな社会
だなあ)。あるいは、道徳的に主張されるだけの企業の社会的責任論。こ
れの裏腹の生産の捨象としての自由主義。

まとまりませんがでは。