本文


 えーと,恐らく,殆ど同じことを主張していると思うのです。ただ,俺と神
山さんとでは用語法(及び問題意識)が若干違うので,議論が今一つかみ合っ
ていないのだと思います。

>法的な人格は、自由な実践的な社会形成主体です。

 おっしゃる通りです。ちょっと俺の言い方が曖昧でした。神山さんの用語法
に即すと,「自由な自己意識」(俺の用語法では“労働する人格”,あるいは
“類的本質”)と言うべきでしょう。これは商品の人格化とは異なって,交換
過程で形成されるものではありませんよね? いかがでしょうか?
 従って,俺が“[ism-study.6] On the "Person" etc.”(1999/07/23 
07:56)で提起した問題,すなわち,──

>これは人格がペルソナ(仮面)であるのか,実践的な社会
>形成主体であるのかということにも関わってくる。

という問題は,神山さんに即しては「人格が物象の人格化であるのか,それと
も『自由な自己意識』であるのか」という風に言い換えた方がいいのでしょ
う。(神山さんの場合にも,物象の人格化としての人格と「自由な自己意識」
とは区別されるのですよね?)。
 さて,神山さんは“[ism-study.9] Re: On the "Person" etc.”
(1999/07/26 20:41)の中で法的人格について次のように述べています。──

>物象が法的な人格を自己の人格化とする
>わけです(商品の人格化)。〔命題1〕

この点が俺にはちょっと解りにくいところなので,ご教示いただければ幸いで
す。この文を読む限りでは,神山さんの場合には,商品の人格化に先行して法
的な人格が形成されているということになります。だって,「物象が」なにが
しかを「自己の人格化とする」ためには,なにがしかがその時点以前に形成さ
れていなければならないでしょう。上着を自己の形態にする(等価形態にす
る)ためには,既に上着が既存のもの(観念的なものなのですが)として実存
していなければなりません。資本が労働を自己の形態にする(自己の下に包摂
する)ためには,既に労働が既存のものとして実存していなければなりませ
ん。神山さんの上記命題によると,法的な人格が既存のものとして実存してい
るからこそ,「物象が法的な人格を自己の人格化とする」わけでしょう。
 俺の場合には,既存の人格が法的人格として妥当するのです。そして,その
場合の既存の人格というのが既に商品の人格化としての人格なのです。つま
り,相互的承認による私的所有者の発生に先行して,商品の保護者あるいは商
品所持者(Warenhüter od. Warenbesitzer)が既に商品の人格化なので
す。商談に先行して,生産過程からでてきた瞬間に,商品所持者が商品の人格
化としての人格になっているのです。商品所持者は,相互的に承認し合うから
こそ人格になるのではなく,人格であるからこそ相互的に承認し得るわけで
す。
 この商品の人格化は既に事実的・経済的にペルソナとして自由に振る舞って
います。ここでは,相互的承認は要件ではありません。物象化を経た上では,
人格は即自的にペルソナであり,社会的諸関係のアンサンブルなのです。その
ような商品の人格化は交換そのものに先行して商談において私的所有者として
相互的に承認し合います。ここで,私的所有者が発生しています。相互的承認
は既存の人格を私的所有者として形態規定するわけです。
 命題1に従って商品の人格化に先行して法的な人格が形成されているとして
も,それがどこで形成されたのか,次のような解釈が可能です。──法的人格
は交換過程で形成されたが,まだ現実的には相互的承認をしてない段階で──
つまり交換過程での一方的な振る舞いにおいて──形成された。要するに商品
の保護者あるいは商品所持者が既に法的人格である。これに対して,「商品の
人格化」は相互的承認時に発生する。
 ところで,神山さんは“[ism-study.5] Re: On "Kabunusi Soukai"
(OKUMURA Hirosi)”(1999/07/22 16:31)では次のようにも述べています。
──

>他人と接触するのは交換であり、ここに私
>的所有者として相互承認しあう。法的規定としての自由、人格は、ここに
>なりたつ。〔命題2〕

ここでは,相互的承認によって初めて法的人格が形成されるように読めます。
それならば,この命題2は命題1とは一致しません。そしてまた,それならば,
他ならないこの相互的承認を行う人格は何なのでしょうか?
 で,例えば命題1を“物象が‘自由な自己意識’を自己の人格化とするわけ
です(商品の人格化)”という風に書き換えるならば,今度は“法的な人格で
はなく,相互的に承認されてもいない‘自由な自己意識’って一体なんなの?
‘特別な主体概念’じゃないの?”という廣松さんの問題提起に立ち戻るわけ
です。

>法的な人格が単なる仮面であるということは、法的な人格の概念に反す
>るので、これは物象的な関係です。自分でないものに操られている人格は
>、人格だが、人格ではありません。

 ちょっとペルソナという語の使い方について,俺は説明不足でした。俺の場
合には,法的な人格とペルソナとは,物象化を前提する人格という点でも,自
由なものとして振る舞っているという点でも同じです[*1]。社会的諸関係のア
ンサンブルと言い換えても構いません。但し,神山さんがここで主張したいこ
とが,もし“法的人格は法的人格に──従って自己自身に──矛盾する”とい
うことであれば,俺の考えと全く同じです。

[*1]俺がペルソナと言うときに念頭に置いているのは,
マルクスが用いているCharaktermaskという名詞です。
──「一般に展開の進展に連れて,われわれは,諸人格
の経済的扮装はただ経済的諸関係の人格化であるのに過
ぎず,諸人格はこの経済的諸関係の担い手として互いに
相対するということを見出すであろう〔Wir werden 
überhaupt im Fortgang der Entwicklung finden, 
daß die ökonomischen Charaktermasken der 
Personen nur die Personifikationen der 
ökonomischen Verhältnisse sind, als deren 
Träger sie sich gegenübertreten.〕」
(KI (2. Auflage), S.114)。「この両局面のどちらで
も,商品と貨幣という同じ二つの物象的エレメントが対
峙しており,また買い手と売り手という同じ経済的扮装
をまとった二人の人格が対峙している〔In jeder der 
beiden Phasen stehn sich dieselben zwei 
sachlichen Elemente gegenüber, Waare und 
Geld, --- und zwei Personen in denselben 
ökonomischen Charaktermasken, ein Käufer 
und ein Verkäufer.〕」(KI (2. Auflage), 
S.166)。

 けれども,上記引用を読む限りでは,神山さんは法的人格とペルソナとを,
“操られているもの(不自由なもの)として現れているのか,それとも自由な
ものとして現れているのか”という基準で,区別しているように思われます
(もし誤読であれば申し訳ありません)。俺の考えでは,そもそも法的な人格
というのは神山さんがおっしゃるところの「物象的な関係」なのです。交換過
程で(しかも交換そのものに先行して商談の中で)承認された人格=私的所有
者。一般的に把握された私的所有者=法的人格[*1]。従って,──

私的所有者
    |
(普遍化)
    ↓
形式的人格=抽象的人格
    |
(法的妥当)
    ↓
法的人格[*2]

俺の考えでは,両者の区別は,“商品所持者が事実的に(=「経済的扮装」)
当事者として振る舞っていれば既にペルソナであり,法的に(他者の意識に対
して,結局のところ相互的承認において)振る舞っていれば既に法的人格であ
る”という点にあるのです。

[*1]「正に交換する個人である法的人格〔der 
juristischen Person, eben des Individuums des 
Austauschs〕」(Gr, S.169)。

[*2]但し,このような形式的・抽象的人格(端的には私
的所有者)が法的人格として法的妥当性を獲得するのは
歴史的な過程です。──「最初には交換によって,また
交換そのものの中で生じるこの事実上の関係〔=私的所
有者としての相互的承認〕は,後には契約等々で法的形
態を受け取るようになる」(Zu A. W.,S.377)。
 もちろん,このような法的妥当性は法制度的整備に先
行するわけです。──「だから,彼ら〔=商品の保護
者〕は私的所有者として相互的に承認し合わなければな
らない。この法的関係──その形式は契約である──
は,法律的に発展していてもいなくても,経済的関係が
そこに反映するところの意志関係であるのに過ぎない。
〔つまり,〕この法的関係または意志関係の内容は,経
済的関係そのものによって与えられているのである
〔Sie[=Waarenhüter] müssen sich daher 
wechselseitig als Privateigenthüumer 
anerkennen. Dieß Rechtsverhältniß, dessen 
Form der Vertrag ist, ob nun legal entwickelt 
oder nicht, ist nur das Willensverhältniß, 
worin sich das ökonomische Verhältniß 
wiederspiegelt. Der Inhalt dieses Rechts- oder 
Willensverhältnisses ist durch das 
ökonomische Verhältniß selbst 
gegeben.〕」(KI (2. Auflage), S.114)。
 なお,このように法的人格の規定は私的所有者として
の人格の規定を形式化したものにほかならないわけです
が,正に現代のシステムにおいて自由・平等な人格の規
定は交換過程における私的所有者としての人格の規定と
してしか必然化されないからこそ,法的人格の方は私的
所有者の規定をありとあらゆる行為当事者に普遍的に当
て嵌めるしかありません。つまり,私的所有者としての
行為当事者だけではなく総ての社会的な行為当事者が事
実上,私的所有者になってしまうわけです。すなわち,
総ての権利能力と行為能力とをもっている当事者は法的
人格として表象されます。
 ところが,この普遍化は留まることを知りません。資
本主義社会は正に自由な労働者の実存に,すなわち所有
剥奪された私的所有者の実存によって成立します。だか
ら,事実上,総ての人間が法的人格として表象される基
礎が成立するのです。こうして市民権(市民の権利=本
質的には私的所有権;そして,歴史的には城壁都市の市
民の特権として発生した)が事実上,人権(人間の権
利)になるまでに至っているわけです。とは言っても,
やはり市民権と人権との対立は行為無能力者の場合には
現出せざるを得ず,かと言って,市民権が事実上,人権
をなしている以上,法律は彼らを法的人格から除外する
わけにもいきません。こうして,現代の民法解釈は権利
能力と行為能力とを分断し,法的人格の要件から行為能
力を除外するわけです。このような法律解釈上のテクニ
ックは市民権と人権との対立の隠蔽に即しては欺瞞です
が,市民権の普遍化という資本主義的生産の傾向に即し
ては進歩です。

 以上,細かく言うと,このように俺は考えています(まだ確信を持ってはい
ませんが)。但し,余り細かいことはシステム認識の大勢に影響を与えませ
ん。ここでは,交換過程に登場する商品所持者たちが,(1)商品の人格化であ
るということ,(2)正に既に人格であるからこそ,人格として相互的に承認さ
れ得るということ,(3)それを通じて(このような回り道を通って)人格とし
て自己を実証するということ──これらの点を,俺の主張のポイントとして確
認しておきます。

>自己と対象物との相互承認。

 ちょっとよく解らないのですが,恐らく神山さんがここで「相互承認」と言
っているのは,俺が労働過程について“自己の対象化
(Vergegenständlichung)と対象の自己化(Aneignung)”と言っている
ことと同じなのだと思うのです。もしそうだとするならば,確かに神山さんが
言う「自由な自己意識」(俺の言い方では“労働する人格”あるいは“類的本
質”)は,神山さんがここでおっしゃるような意味での「相互承認」によって
成立すると言えないことはないのです。けれども,その場合にはその場合で,
今度は,労働過程での(神山さんが言うところの)「相互承認」と交換過程で
の相互的承認との区別という形で,同じ問題──物象化するべき人格と物象の
人格化としての人格との区別という問題──が俎上に上ります。

          **************************************************

 神山さんは嫌って言うほどよくお解りでしょうが,余りこの問題に詳しくな
い方もいらっしゃるから,論争史的な補足を一言。
 マルクスはその学問的営為の初期において類的本質(『経哲草稿』)──あ
るいは共同本質(『ミル評注』)──という名辞をよく用いています。ところ
が,ある時点から,彼はこれを全く使わなくなるのです。廣松さんはその時点
をズバリ『フォイエルバッハ・テーゼ』に求めるわけです。すなわち,廣松さ
んによると,その第6テーゼで「その現実性においては,人間的本質は社会的
諸関係のアンサンブルである〔In seienr [=des menschlichen Wesens] 
Wirklichkeit ist es das ensemble der gsellschaftlichen 
Verhältnisse〕」(Thesen, S.6)と言明したということを以て,マルク
スはそれまでの類的本質概念を放棄し,社会的諸関係のアンサンブル概念を選
択したということになります。廣松さんによると,類的本質とは特別な主体概
念──フォイエルバッハ的な主体,ヒューマニズムの立場から階級社会の矛盾
を隠蔽する虚構の主体──であって,社会的諸関係のアンサンブルとは階級に
属する個人のことになります[*1]。“類的本質などという概念を用いるのはブ
ルジョア的であって,ブルジョアの利益のために階級社会の矛盾を隠蔽するも
のでしかない。ブルジョア社会は階級社会として完結しているのだから,類的
本質の出番はないのだ”というわけです。こうして,廣松さんは,階級的個人
から出発して階級的個人に終着するわけです。旅に出て旅をせずに帰ってくる
わけです。廣松さんは,資本主義的生産のアナロジーで単純商品流通を把握
し,しかるに肝心の資本主義的生産の方は捨象してしまうのです。

[*1]社会的諸関係のアンサンブルについて,廣松さんの
説明はこの投稿で俺が行っている説明とは異なるという
ことにご注意ください。俺も階級的個人がアンサンブル
であるということは全く否定しないのです。ですが,俺
の場合には,それに先行して,単純商品流通で現れる商
品・貨幣の人格化が既に現実的にアンサンブルなので
す。廣松さんにとっては,単純商品流通はそもそも仮象
ですから,結局のところ,商品の人格化が──いかに転
倒的にであろうともそれでもやはり現実的に──社会的
諸関係のアンサンブルであるということは認め難いこと
なのです。

 これは結構重要な問題なのです。第一に,理論的には,この問題は,初期マ
ルクスと後期マルクスとは全然違う(認識論的断絶)のかどうかということに
関わっているのです。廣松さんによると,疎外論から物象化論へ,マルクスの
理論性格は全く変わってしまったということになります。これが曲者で,廣松
さんの場合には,フォイエルバッハ的な本質的主体に無理やりに(頭の中で,
哲学者風に)入口を求めているのが疎外論,出口がないのだということを正々
堂々認めているのが物象化論だということになるのです。
 第二に,実践的には,上記の理論の直接的帰結は,資本主義社会には入口が
ない以上,出口もなく,それを断ち切ることができるのは専ら──宗教的な確
信によって悟りを開き,当事者から自分を切り離すことができた(つまり出家
することができた)──特権的な天才によって指導された弟子集団だというこ
とになるのです(出家者とその弟子!)。“資本主義社会は階級社会である。
個人は階級の一員──社会的諸関係のアンサンブル(と言うのも,廣松さんは
単純商品流通の諸表象を単なる仮象として捉えるから)──でしかない。客体
の方が完結してしまっているのだから,学知的第三者の指導によって,当事者
はこの完結性に対して戦わなければならない。──見えない明日を目指して進
め,進め,進め。退路を絶って前進せよ。戦い続けろ,明日はなくても”とい
うわけです。
 で,もっと言っちゃうと,こういう考え方は割と一般的なのですね。一方で
の“寝て待て”革命論に対して,他方でのこのような“闇雲”革命論が対置さ
れているというのが現状ではないでしょうか。だから,廣松さんを批判しよう
というのは廣松さんのことがにくくてにくくて溜まらないからでは決してな
く,今日の社会変革理論に一石を投じたいからなのです。闇雲革命論の方々の
理論構造は大体において廣松さんと同じです。まぁ,そんなかでマルクスのテ
キストに即して割と緻密な理論を構築しているのが廣松さんなので,ここでは
廣松さんを引き合いに出したわけです。

          **************************************************

 さて,これまでの投稿で,なんで俺が物象化するべき人格と物象の人格化と
しての人格との区別という点で神山さんにかみついているのかと言うと,どう
にかして物象化するべき人格に類的本質(本源的な社会的関係形成主体)を,
また人格の物象化としての人格に社会関係のアンサンブルを割り当てたいから
なのです。また,この投稿で,なんで商品所持者としての物象の人格化と私的
所有者としての物象の人格化との区別を主張しているのかと言うと,どうにか
して,類的本質がわれわれの目の前に現れるプロセスを明らかにしたいからな
のです。(どうもうまくいかなくて困っています)。
 それでは,神山さん,ISM研究会の皆さん,俺もよく解っていない(殆ど思
い付きで書いている)ところなので,いくらでも批判可能だと思います。どん
どんご批判ください。

参照文献

Gr, Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie, 
    Ökonomisches Manuskripte 1857/58, In: MEGA^2 II/1.1--1.2.
KI (2. Auflage), Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie. 
    Erster Band. Hamburg 1872, In: MEGA^2 II/6.
Thesen, Thesen über Feuerbach, In: MEW, Bd. 3.
Zu A. W., Randglossen zu Adolph Wagners ,,Lehrbuch der politischen 
    Ökonomie``, In: MEW, Bd. 19.