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神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。うーん,今,“[ism-study.10]
Re: On "New Liberalism" etc.”(1999/07/27 13:51)をざっと読んだとこ
ろ,古典派評価については対立点がなくなっちゃったような気がします
が……。議論を混乱に導いている原因の一つは,俺自身の頭脳が混乱している
ということのほかに,俺がきちんと自分の問題意識を提示していないというこ
とにあると思います。ですから,最初に先ず,神山さんへのお返事ということ
ではなく,俺自身の問題意識を明確にしておきましょう。
俺が“[ism-study.7] On "New Liberalism" etc.”(1999/07/24 22:25)で
述べたのは,要するに,“新自由主義と古典派,全然ちゃうやん”ということ
でした。どうして俺がこんな区別をしなければならないのか,ちょっと解りに
くかったと思います。そこでは,──
第一に,進歩主義史観を批判しようということが問題意識でした。進歩主義
史観を徹底しようとすると(実は事柄の性質上,徹底することはできないので
すが),“生産力を発展させるということが社会的進歩にとっての唯一の客観
的な基準であり,次の社会を準備するものである。ベトナム人民がベトナム戦
争で勝ってしまったのがそもそも間違いだ。フランス・アメリカの傘の下でお
となしく経済発展に従事していればよかった。天安門事件もバカ学生の一揆
だ。トウショウヘイ(漢字がよくわからん)は偉い”という,一つ一つの命題
をとってみると至極ごもっともですが,全体を見てみると実に馬鹿馬鹿しい立
場に陥ります。この立場が新自由主義を相手にすると,“新自由主義は進歩的
で大いに結構。個人の自由を求める点でもマルクスと同じだ。ハイエクは素晴
らしい。マルクス主義はマルクスに敵対的だが,新自由主義はマルクスに親和
的だ”ということになります(かなり漫画チックに描いています)。
このような進歩主義史観に対して,反動的左翼の立場から批判する人もいま
すが,ちょっと問題外です。結局のところ,進歩主義史観の新自由主義評価を
批判するためには,新自由主義の進歩性の規定性(一体どういう限定で,それ
が進歩的であるのかということ)を明らかにしなければならないわけです。
第二に,「諸理論」(剰余価値学説史)の「リカード学派の解体」稿をどの
ように評価するのかという問題意識でした。それまでマルクスは実に真面目な
経済学史家として経済学の歴史を叙述していたのですが,突如として「リカー
ド学派の解体」稿では推理小説家に転回し,学問的な嘘デタラメをやらかして
いるわけですね[*1]。これをどう評価するのかということは,マルクス理論が
歴史的文脈の中でどのように位置付けられるのかということ(もっと実践的に
言うと,マルクス以後に社会科学の発展なんてあったのか,あったとしたらど
のようなレベルでの“発展”だったのか,ということです)に直結します。何
故ならば,「リカード学派の解体」稿は“経済学解体”稿であり,“マルクス
理論の必然性”稿であるからです。古典派の位置付け問題はここに関わってい
るわけです。
[*1]例えば,ベイリについては,鈴木鴻一郎さんとか廣
松さんとかは“ベイリ稿でマルクスはリカードとベイリ
とを両刀批判しているのだ”と主張しています。けれど
も,実際にはマルクスはベイリのことなど全く評価して
いません。従って,彼らの主観的意図は別にすると,客
観的には,鈴木さん,廣松さんはマルクスを批判してい
るわけです。だって,ベイリとリカードとを両刀批判す
るべきであったのにも拘わらず,マルクスは両刀批判し
ていないわけですから。
例えば,玉野井芳郎さん(及び西欧の学史家たち)
は,“リカード派社会主義は,正しくは,スミス派社会
主義である。何故ならば,リカード派社会主義者たちは
リカードの理論などこれっぽっちも理解しておらず,経
済学的説明ではスミス理論に頼っているからだ”と,こ
れは自覚的にマルクスを批判しています。
例えば,明石さんも,“マルクスのマルサス評価はち
ょっとおかしい。何故ならば,同じく支配労働価値説を
展開していながら,スミスは搾取の直観として評価され
ているのにも拘わらず,マルサスは科学の否定として批
判されているからだ”と,これもまた自覚的にマルクス
を批判しています。
大体,マルクスのジョーンズ評価,ありゃ一体なんで
すか。ジョーンズで真の経済科学は終わるだって? こ
れはマルクスという個人崇拝の対象が書いているからい
いようなものの,もし俺が学史学会なんかでマルクスと
同じ発言をすれば,“いやいや,そもそもジョーンズは
経済学者ちゃいまんねん”と嘲られるのがおちです。
このように,マルクスを評価するという形で批判しよ
うと,批判するという形で批判しようとも,いずれにせ
よ,アカデミックに見ると,「解体」稿はおかしいとこ
ろだらけである。それにも拘わらず,神山さんもよくご
存じのように,「諸理論」の中で「解体」稿が最も理論
的に面白いところであり,且つマルクスは主要草稿を執
筆する中で何度も「解体」稿を参照しているわけです。
一般論として,古典派もケインズ主義もマルクス主義も社民主義も俗流経済
学も新自由主義も進歩的(かつ反動的)である。これはこれでいいのです。で
も,いまここで,ケインズ主義は反動的なものとして現れているでしょう。い
まここで,マルクス主義は反動的なものとして現れているでしょう。いまここ
で,新自由主義は進歩的なものとして現れているでしょう。これをどうやって
評価するか。理論の内容で(学史的な,アカデミックな仕方で)評価するの
か,それとも他のモノサシで評価するのか。“[ism-study.7] On "New
Liberalism" etc.”はこれを問題にしていたわけです。
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それでは,神山さんへのお返事。神山さんは“[ism-study.8] Re: On "New
Liberalism" etc.”(1999/07/26 17:53)で次のように述べています。
>実践的社会形成運動としての新自由主義について一言付け加えると、民
>営化路線は、効率性を正当化根拠にしており、
そしてまた,“[ism-study.10] Re: On "New Liberalism" etc.”
(1999/07/27 13:51)で次のように述べています。
>社会運動としての新自由主義的政策
「実践的社会形成運動としての新自由主義」というのも,ひょっとすると,
いわゆる新自由主義的政策(1980年代以降)のことを指しているのでしょう
か。そうだとすると,ここでちょっと二人の間で話がずれてしまっているので
す。俺は“[ism-study.7] On "New Liberalism" etc.”(1999/07/24 22:25)
で,──
>但し,思想の内容そのものの位置付けでではなく,歴史的な状況の中での位
>置付けでは,新自由主義は俗流経済学とは全く異なっているのです。
と申し上げました。恐らくこういう表現がよくなかったのでしょう。俺として
はあそこでは,直接的には,政策としての新自由主義を問題にしたつもりはな
かったのです。あくまでも思想としての新自由主義について,その内容そのも
のとそれが置かれる具体的な歴史的文脈との区別について語っていたのです。
何故ならば,新自由主義“政策”なんてものが本当に実存したのか甚だ怪しい
もんであるのに対して,時代の当為としては新自由主義“思想”は確かに実存
しているからです。もちろん,“新自由主義政策については,わしゃ語らん”
と言っているわけでは決してありません。それどころか,「それが置かれる具
体的な歴史的文脈」を問題にする時には,政策との関連を避けては通れませ
ん。一応すっきりしている“思想”から出発して,得体が知れない“政策”と
の関連を捉え直そうということです。
さて,「効率性を正当化根拠にしており」という神山さんの発言についてで
す。俺が“[ism-study.7] On "New Liberalism" etc.”の中で
>新自由主義の革新的・進歩的性格は正にこのような歴
>史状況において,担わされたものだと思うのです。
という途方もなく曖昧な表現を使って悩んでいる(他人をも悩ませている)の
は,どうもこの点が引っかかっている(うまく整理をつけていない)からなの
です。
現在では,既存の国営企業には効率性も正当性(単純商品流通における本来
的な正当性──つまり自由・平等・所有)もないということがあまりに明らか
ですから,どっちでもいいように思われるかもしれませんが,イデオロギーの
「歴史的な状況の中での位置付け」という観点から言うと,“どちらの座標軸
で相手を批判するのか”割と重要だと,俺は考えます。そもそも反マルクス主
義・反ケインズ主義としての(つまり政策としての新自由主義ではなく,イデ
オロギーとしての)新自由主義は──両面をもっていましたが──どちらかと
言うと本来的な正当性(自由・平等・私的所有)の側からマルクス主義・ケイ
ンズ主義を批判したように思われます(『隷従への道』)。
で,新自由主義思想と,その現実化であったはずの新自由主義政策との関連
についても,補足しておきます(また議論の混乱の原因になるかな)。政策と
しての新自由主義について言うと,今現在,資本はその使命──社会的生産の
形成,“効率性”の追及,“蓄積せよ”──から国有企業を制限に感じていま
す。だから,“公正性”追及のマルクス主義的政策・社民主義的政策・ケイン
ズ主義的政策ではなく,“効率性”追及の新自由主義的政策を,資本は資本の
国家をして採用させた,と。この点,まだよく解っていないのですが,やはり
相互的な転回があるような気がするのです。社民主義についてはまだちょっと
よく解らないのですが,イデオロギーとしてのケインズ主義について言うと,
(もちろん“公正性”をも重視していたのですが,それ以上に)“効率性”を
追及するということによって,資本主義の延命を図ったはずなので
す[*1][*2]。ところが,政策としてのケインズ主義について言うと,それが今
では正に資本の機能性・効率性にとって制限になっているわけです。逆に,イ
デオロギーとしての新自由主義について言うと,(もちろん“効率性・機能
性”をも重視していたのですが,それ以上に)“公正性”を追及するというこ
とによってマルクス主義・ケインズ主義を批判したはずなのです[*3]。ところ
が,政策としての新自由主義について言うと,それが今では正に資本の社会的
使命である機能性・効率性を解放するからこそ資本によって受容されているわ
けです。以上の点については,ちょっと俺はまだ迷っているところなので,ご
教示いただければ幸いです。
[*1]イデオロギーとしてのマルクス主義にとっても,も
ともと,公正性の追及と同じくらいに重要であったの
は,機能不全に陥った資本主義に対して社会主義のバラ
色の機能性・効率性を対置するということだったと思い
ます。
[*2]もちろん,ケインズの思想とケインズ主義の思想と
は異なるわけです。ケインズの場合には,延命の果ての
安楽死という深刻な問題があったからです。けれども,
“資本主義の延命”という観点からは,まぁ,この問題
は捨象してもいいでしょう。
[*3]ドラッカー風に言うと,「〔……〕ハイエク
〔……〕は『隷従への道』(1944)の中で,社会主義は
不可避的に奴隷化を意味するであろうと論じた。
〔……〕しかし,ハイエクはこの1944年には,マルクス
主義が機能し〔work〕得ないとは論じなかった。逆であ
る。彼が恐れたのは,正に,マルクス主義は機能し得る
し,実際に機能してしまうであろうということであっ
た」(Drucker (1993), p.33)。序でに言うと,ハイエ
クは現実に彼の眼前で機能しているケインズ主義を公正
性の観点から批判していたわけです。
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積極的な自説展開ではなく,論点確認に終始してしまいましたが,またその
結果としてますます議論を混乱に招く危険がありますが,ちょっと時間がない
ので,このくらいで失礼いたします。
参照文献
Drucker (1993), POST-CAPITALIST SOCIETY, Harper Business