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今日は、神山です。今井さん、お忙しい中有難うございます。
> 古典派評価については対立点がなくなっちゃったような気がします
取敢えずそうですね。
> が……。議論を混乱に導いている原因の一つは,俺自身の頭脳が混乱している
> ということのほかに,俺がきちんと自分の問題意識を提示していないというこ
> とにあると思います。
> 第一に,進歩主義史観を批判しようということが問題意識でした。
>ベトナム人民がベトナム戦
> 争で勝ってしまったのがそもそも間違いだ。フランス・アメリカの傘の下でお
> となしく経済発展に従事していればよかった。天安門事件もバカ学生の一揆
> だ。トウショウヘイ(漢字がよくわからん)は偉い”という,一つ一つの命題
> をとってみると至極ごもっともですが,全体を見てみると実に馬鹿馬鹿しい立
> 場に陥ります。この立場が新自由主義を相手にすると,“新自由主義は進歩的
> で大いに結構。個人の自由を求める点でもマルクスと同じだ。ハイエクは素晴
> らしい。マルクス主義はマルクスに敵対的だが,新自由主義はマルクスに親和
> 的だ”ということになります(かなり漫画チックに描いています)。
「進歩主義史観」の立場に対する批判が問題意識なのですね。
生きた人間たちが状況と対峙しながら選び取り、また行きつかざるを得
なかった歴史の展開を、後からこっちが進歩的だった、進歩的なものはよ
い、とする現実追認、「客観主義」が、問題なのだ、といったら、簡略過
ぎましょうか。
> 第二に,「諸理論」(剰余価値学説史)の「リカード学派の解体」稿をどの
> ように評価するのかという問題意識でした。
>
> 「実践的社会形成運動としての新自由主義」というのも,ひょっとすると,
> いわゆる新自由主義的政策(1980年代以降)のことを指しているのでしょう
> か。そうだとすると,ここでちょっと二人の間で話がずれてしまっているので
> す。
>俺としては
>あくまでも思想としての新自由主義について,その内容そのも
> のとそれが置かれる具体的な歴史的文脈との区別について語っていたのです。
話はずれていたようです。
>一応すっきりしている“思想”から出発して,得体が知れない“政策”と
> の関連を捉え直そうということです。
政策は、中間物として現れますから。思想のほうはすっきりしているの
かというと「一応」のような気がしますが。そもそもハイエクが「新」自
由主義なのか、私は今のところはっきり考えてません。フリードマンとも
かなり違うし。
> 新自由主義思想と,その現実化であったはずの新自由主義政策との関連
その現実化といえるのか、いえるともおもえますが。
> で,新自由主義思想と,その現実化であったはずの新自由主義政策との関連
> についても,補足しておきます(また議論の混乱の原因になるかな)。
混乱するかもしれないですね。ごく簡単にコメントさせていただきます。
>政策と
> しての新自由主義について言うと,今現在,資本はその使命──社会的生産の
> 形成,“効率性”の追及,“蓄積せよ”──から国有企業を制限に感じていま
> す。だから,“公正性”追及のマルクス主義的政策・社民主義的政策・ケイン
> ズ主義的政策ではなく,“効率性”追及の新自由主義的政策を,資本は資本の
> 国家をして採用させた,と。この点,まだよく解っていないのですが,やはり
> 相互的な転回があるような気がするのです。社民主義についてはまだちょっと
> よく解らないのですが,イデオロギーとしてのケインズ主義について言うと,
> (もちろん“公正性”をも重視していたのですが,それ以上に)“効率性”を
> 追及するということによって,資本主義の延命を図ったはずなので
> す[*1][*2]。ところが,政策としてのケインズ主義について言うと,それが今
> では正に資本の機能性・効率性にとって制限になっているわけです。逆に,イ
> デオロギーとしての新自由主義について言うと,(もちろん“効率性・機能
> 性”をも重視していたのですが,それ以上に)“公正性”を追及するというこ
> とによってマルクス主義・ケインズ主義を批判したはずなのです[*3]。ところ
> が,政策としての新自由主義について言うと,それが今では正に資本の社会的
> 使命である機能性・効率性を解放するからこそ資本によって受容されているわ
> けです。
ケインズ主義も、常識的に考えても、経済成長を想定し、それによって
担保されること、失業吸収という公共性の実現が資本総体の成長の装置と
して転回的に規定されること、また失業吸収のためには資本の成長という
公共性が想定されること、などすぐ思い浮かびます。
しかしこのこと自体は規制緩和の流れでも別になくなるわけでなく、ア
メリカこそ「福氏国家」(今井さん;topics[91]で、イデオロギストが国
家にせいで失業が出るのだ、と逆立ちしたことをいっても、国家の介入自
体がなくなるわけではありません。国家こそ悪だ、弱肉強食で、自己責任
で、失業者は死ね、そのほうがいいんだ、という議論はあまりないでしょ
う。
政策としての新自由主義は「本来的な正当性」(私的所有)には無自覚
で、だらしなく、民営化のような全体論的な公共性をたて、効率性として
も、徹底されてないでしょう。
とりあえず、今井さんの関心が「思想」(もちろんそのもの、ではなく
)、にあり、私の関心が、単純なシステムの枠組にあった、というずれが
あったようですね(単純化して)。人格性の世界の「国家」としての形成
と、国家としての社会の理性、制御形式の、部分性、狭隘性、物象に依拠
した分裂性。それに対する、批判形態としての物象的なものの広がり。し
かしそれの虚偽性と自己解体性の露出。こんなことを私はイメージしてま
した。
簡単な応答のみですみません。
ではみなさん、また。