本文
ISMのみなさん、今日は、神山です。
今井さん、いろいろお答えありがとうございます。
> 正にその通りなのです。進歩主義史観=客観主義。一つ一つの命題をとって
> みると──あるいはその命題の前提をとってみると──,手放しで正しいも
> の,あるいは少なくとも反証不可能なものが多いのです。神山さんもよくご存
> じのように,これに対して反動的左翼の感傷的反論を対置しても勝ち目はあり
> ません。
だいたい、実証主義というのも、1つ1つはごもっともで、反論できな
いことを言う。単純進歩史観もそうです。ベトナムはアメリカ傀儡の方が
経済発展できた可能性がある。はい、そうでございますか。
しかし、全体をとってみると、ようするに、「なるようになる」、この
世はお釈迦様が導いてくださっている。こういう理解になります。
反動左翼は太刀打ちできないでしょう。個々の命題は何も語らないがゆ
えに、それが主張されると、孤立的な対応は、反論不可能に陥ります。
われわれとしては、総体性を捕らえないやつに総体性の把握をいわなき
ゃならないので、考えなきゃならないわけです。
> スターリン主義も新左翼も同じくマルクス主義で
> ありながら,相違があるのと同様に。これはこれで,彼らの間での内ゲバとし
> てやってもらえればいいのであって,われわれにとっては,全部同じ根っこか
> ら分生した自由主義なのでは?
> 次に“新”という点について言うと,ソ連社会主義およびケインズ主義を経
> 験した上での自由主義は総て,危機意識に対する危機意識という点で,“新”
> と形容されていいと思います。もちろん,この区別は思想の内容によってなさ
> れるわけではありません。具体的な歴史的文脈によってなされるわけです。
思想内容的には、ハイエクの自由論はかなり古典的に思えますが、でも
その古典さが古典さであるのも、スターリン主義とケインズ主義の台頭を
眼前に見ているからでしょう。おっしゃるとおり危機意識です。
生産関係の成熟度から、ハイエクを区別できるかもしれません。フリー
ドマンも企業の社会性を眼前に見ているし。各々また、全体主義に転回し
ますが、ハイエクはイギリス的な伝統、自生秩序、フリードマンはアメリ
カ的な金融政策に接近する、というように。まあ、これは思いつき半分で
冗談交じりですが。そして、ハイエクも単なる孤立的な個人主義一般では
なく(それなら18世紀の市民主義者でいいのです)20世紀の知なので、分
裂的なマルクス主義者は、ハイエクもケインズも「モラルサイエンス」で
、ハイエクの市場論にとびつくわけです。
>新自由主義政策は現実的には反自由主義政
> 策だったからです。
ここがわれわれになじみの生きた矛盾のありようですね。