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窪西さん、皆さん、今日は。
> > 「自由な自己意識」(俺の用語法では“労働する人格”,あるいは
> > “類的本質”)と言うべきでしょう。これは商品の人格化とは異なって,交換
> > 過程で形成されるものではありませんよね?
>
> このばあいの「人格」とはようするに労働能力のことだと考えてよいのでしょ
> うか? よく分かりません。
今井さんの広松批判の文脈をさしおいていえば、(今井さんにかみつか
れるかもしれませんが)不正確を承知で、平たくいえば、個々の労働能力
そのものではなくて、それが社会的なコミュニケーションの中で、社会的
分業に割当てられている姿、要するに、生産共同体である社会のメンバー
シップのことです。社会的意思を介して、構成員として振舞うありようだ
とおもいます。
近代社会では、自由な契約主体(経済的には労働力商品の所有者)とし
ての労働者をさすのはないでしょうか。人格に対して、労働能力はその客
体、物件(物象)として分裂してます。
次の窪西さんの発言、分りやすいです(深く考えると疎外論の基本の難
しい問題が顔出しますが)。
> 労働者は目的意識的にモノをつくりますが、(われわれの社会においては)目
> 的意識的に社会をつくってるわけではないですよね。社会関係を形成すべく運動
> せざるをえないようなモノをつくることによって、無意識的に社会を形成してい
> るというか。
労働は合目的的だが、それもいきなり形態が完成するのではないから、
労働者は目的意識性を否定され、資本の側に移っています。社会もいきな
り完成せず、目的意識的に、「さあ、地球上の万人よ、てをとりあって、
しゃかいをつくりましょう」なんて設計図を書いてつくるわけじゃありま
せん。合目的的であるがゆえに、他の主体性の目的に分裂的に、自己否定
的に目的性を疎外されて実現せざるを得ず、これは合目的的な社会の完成
のための「通過点」なわけです。
> 無人島の労働は社会をつくらないのであって、労働が社会を形成するためには、
> 生産者がある一定の社会的分業の体制のもとで働いていることが前提になります
> ね。商品生産社会のもとでは、労働の社会性はモノの社会性として、(他人あて
> の使用価値であるという)使用価値の社会的性格と、抽象的労働の支出としての
> 性格の2面で現われるわけですけども。
大きくいうと、社会を創らないけれど社会を創る、そういう在り方が、
社会性、人格的媒介性の否定として、社会を創る物象的な関連でしょう。