本文
今井さん、ごていねいなお答えありがとうございます。
> ──つまり,「独立的な諸個人」が交換過程に「入り込む」(eingehen)瞬
> 間,すなわち彼らが「交換過程の意識的な担い手として」交換過程に「現れ
> る」(erscheinen)瞬間に,俺は物象の人格化の成立を見ています。
了解いたしました。
>
> [*1]俺は物象化が成立する局面と人格化が成立する局面
> とは異なると考えています。俺と同様に神山さんも物象
> の人格化論が商品の交換過程で成立するとお考えなので
> すから,神山さんにとっても物象化が成立する局面と人
> 格化が成立する局面とは異なるのですよね? 恐らくこ
> の点ではわれわれの間に対立点はないでしょう。
> で,物象化が進展する局面と人格化が進展する局面と
> も必ずしも同じではないと考えるわけです。恐らく,こ
> の点でも俺と神山さんとの間には対立点はないのではな
> いかと思います。
そのとおりだと思います。
> 但し,資本の人格化を視野に入れると,かなり厄介な
> ことになるのです。直接的生産過程の内部での物象化・
> 人格化の進展が問題になりますから。マルクスはこの点
> を解決していないと俺は考えています。ただ,現在この
> 問題を持ち出しても議論が混乱するだけでしょうから,
> 止めておきましょう。
商品論から、固有の資本論、株式会社論にいくと、問題が拡散してしま
うでしょう。
>
> さて,恐らく神山さんが念頭においておられるのは恐らく次の文集団である
> はずです。──
>
> 「しかし,対自的に存在する資本とは資本家のことである。資本は必要だが資
> 本家は必要ではないと,社会主義者たちはよく口にする。その場合には,資本
> は純然たる物象として現れており,生産関係として現れてはいない。生産関係
> が自己内に反省しているのが正に資本家なのである。なるほど私は資本をこの
> 個別的な資本家から切り離し得るし,また資本は別の資本家のもとに移ってい
> き得る。しかし,資本を失うと,この個別的な資本家は,資本家であるという
> 属性を失ってしまう。それ故に,資本は,なるほど個別的な資本家から分離さ
> れ得るが,資本家というもの──そのようなものとして資本家は労働者という
> ものに対峙する──からは分離され得ないのである。それと同様に,個別的な
> 労働者も労働の対自的存在であるということを止め得る。労働者が貨幣を相続
> するということも盗むということなどもあり得る。しかし,その場合には,労
> 働者は労働者であるということを止めてしまう。労働者は労働者としては対自
> 的に存在する労働でしかないのである〔Aber das für sich seinende
> Capital ist der Capitalist. Es wird wohl von Socialisten gesagt, wir
> brauchen Capital aber nicht den Capitalisten. Dann erscheint das
> Capital als reine Sache, nicht als Productionsverhältniß, das
> in sich reflectirt eben der Capitalist ist.Ich kann das Capital wohl
> von diesem einzelnen Capitalisten scheiden und es kann auf einen
> andern übergehn. Aber indem er das Capital verliert, verliert er
> die Eigenschaft Capitalist zu sein. Das Capital ist daher wohl vom
> einzelnen Capitalisten trennbar, nicht von dem Capitalisten, der als
> solcher dem Arbeiter gegenübersteht. So kann auch der einzelne
> Arbeiter aufhören das Fürsichsein der Arbeit zu sein; er kann
> Geld erben, stehlen etc. Aber dann hört er auf Arbeiter zu sein.
> Als Arbeiter ist er nur die für sich seiende Arbeit〕」(Gr,
> Teil 1, S.223)。
>
> ──つまり,(a)資本という物象は自己内反省して資本家という人格的形態を
> 必然的に受け取る;(b)しかも,正に資本は物象的生産関係であるから,資本
> 家は,個別的な人格であるとは言っても,個別的な人格として資本家であるの
> ではなく,「資本家というもの」(諸人格の関係)として資本家なのである;
> (c)だから,資本家はいらねーが資本は欲しいってのはバカの幻想だ──とい
> うことでしょう。
> で,上記引用文では,専ら物象の能動性(主語としての物象,主体としての
> 物象)に即して,“物象的関係が自己内反省する局面で物象の人格化が発生す
> る”という規定を行っているのです。実際にまた,ブルジョア社会での現実的
> な主体は物象なのですから,これは当然の取り扱い方でしょう。
> ただ,既に述べたように,俺は物象化が発生する局面と人格化が発生する局
> 面との区別を入れておかなければならないと思うのですね。物象と人格との対
> 立に即して規定を行う場合には,“物象的関係が人格的関係に反省する局面で
> 物象の人格化が発生する”と表現してもいいのではないかと思います。(もち
> ろん,言うまでもなく,この場合には,“物象的関係が人格的関係に反省す
> る”という規定は物象の能動性に即しては直接的に,直ちに,そっくりそのま
> んま“物象的関係が自己内に反省する”という規定であるわけです)。
> そうだとすると,物象と人格との対立を念頭に置くと,寧ろ,“物象的関係
> が人格的関係に反省する局面で,物象の人格化は発生する”というのが,人格
> 化の発生を表現するのに最も解りやすいかなぁと思います。こうすれば,「反
> 省」という神山さん(およびマルクス)の用語法を用いながら,俺流のやり方
> で,物象化が発生する局面と人格化が発生する局面とを区別することができる
> のではないかと考えた次第です。但し,正確を期するならば,既に述べたよう
> に,“物象的関係が人格という形態で自己内反省する局面で,物象の人格化は
> 発生する”と言うべきであるのかもしれません。
> と,まぁ,こんなところでしょうか。なにも論証になっていない感覚的な言
> い回しに終始して申し訳ありません。ここら辺,俺はよく解っていないので,
> ご教示いただければ幸いです。
以上の引用は、私の言いたかったことを、緻密に書き広げてくださった
感じです。「人格的関係」に拘りのちがいがありますが。
> (2)「生きた人間の行為が物象の行為である局面」について。俺の用語法で
> は,“ブルジョア社会の現実的主体である物象の運動が人格の運動によって担
> われなければならない局面,従って物象が既存の人格を自己の媒介的実現形態
> にする局面”という風になります。「物象の行為」というのが今一つよく解り
> ませんが,「生きた人間の行為が物象の行為である」と言っちゃうと,「生き
> た人間の行為が物象の」運動として実現される局面(物象化の局面)を連想し
> てしまい,なんか価値形態論の局面と交換過程論の局面とが,従ってまた物象
> 化の局面と人格化の局面とがうまく区別できないように思われます。
価値形態論の局面と交換過程論の局面との区別は、商品の能動性の媒介
としての価値形態の産出と、人間の欲望満足行動を介した商品相互の実現
と考えますが(これはまた別の機会の論題で)、とりあえず、区別がある
ことが分ればいいのではないでしょうか。
> (3)「物象の対である人格の成立または人格化を見る」について。俺の考え
> では,上記の局面に物象の「人格化を見る」──そしてこのような疎外された
> 形態で人格の実現を見る──ということです。神山さんの質問文から「物象の
> 対である人格の成立または」という部分が消去されているということ,神山さ
> んの質問文に「そしてこのような疎外された形態で人格の実現を見る」という
> 部分が追加されているということにご注意を。ここでは,神山さんがおっしゃ
> る「成立」とは発生のことであると解釈しました。俺の考えでは,人格の発生
>は物象の発生に先行するのです。もしそうでなければ,どうして人格の物象化
>としての物象があり得るでしょうか。商品は人格的生産関係の物象化であり,
> 商品という形で物象化するべき諸人格の関係は仮象では決してありません。
> ──これが俺の廣松さんに対する批判点なのです。
「商品は人格的生産関係の物象化であり」と私も考えていますが、それ
は、社会的生産関係が、人格的に媒介されない、物象的に媒介される、と
いう意味で受取っています。
「俺の考えでは,人格の発生は物象の発生に先行するのです。もしそう
でなければ,どうして人格の物象化としての物象があり得るでしょうか」
とおっしゃる拘りが、わかるようで、今一つすとんとおちないのですが。
たしかに物象化とは、人格の物象化なのですが、それは、より大きくい
えば、生産関係の物象化ですね。生産は、人格的に媒介されなければなら
ない(人格的生産関係、人格的に媒介されるべき関係)が、人格的関係は
形成されていない、という矛盾です。もちろん、この「ねばならない」は
、今井さんもよくご承知のとおり、「特別な主体概念」の「人格」が潜伏
していて背後から操って現れ出ようとしているわけではありません(潜伏
こそは広松的な理解ですよね)。
この矛盾を解く独特の構造(媒介形態)を、私は大雑把に単純化してと
らえて、まあ逃げてるわけです。つまり、生産は、人格的に媒介されなけ
ればならないが、人格的関係は形成されておらず、生産の関連をつけよう
とするのは物象である、生産は人格的でない、しかし、人格的でなければ
ならず、この人格性は、生産ならぬ生産から疎外された生産の顔である「
交換」において成立する、と。
交換過程での人格の発生は、今井さんも私も同じくとらえるところです
。
ただ、今井さんは、物象の担い手を人格化とするわけです。物象は運動
しなければなりませんから。これが人格化でなかったら、何なのだ?とな
るのですよね。
私はまずは、物神性の構造ととらえます。第1章第4節を、交換過程論
にもちこむのか、といわれそうですが、人間−物の意識構造、私的所有と
して区切られる空間の内面構造を、当然維持したまま、交換に入るわけで
す。ただし、ここでは、人間は、いわば静止した、物象の顔から、交換運
動しようとする物象の担い手なわけです。相互承認してしまえば、これも
法的人格の契機になってしまい、法的行為に一連の契機になってしまいま
すが。とりあえず、担い手一般を人格化とする用語はマルクスも使ってい
ますし、可能ですが、ここで、担い手を人格化とすると、ちょっと、意味
が拡散するのではないか(第1章第4節の人間はもちろん人格化とはよば
ないのですよね)、という気がします。 このように、私的生産の自己矛
盾からとらえていくことは、今井さんも同じだと思います。あくまでも、
疎外であり、矛盾、あるけどない、ですよね。だから、人格=「仮象」説
に対して、物象化を措定する、物象化に先立つ人格がある、先に人格がな
ければいけない、と強調することは、かえって、広松説に引きずられはし
ないか、今井さんの問題意識に即しても、疑問の余地が生じるようにおも
われます。次の引用についてもまた考えさせてください。
>対立点はその先にあり,(a)
> 交換(商品譲渡)に先行して相互的承認の時点で人格化が発生するのか,それ
> とも(b)交換(商品譲渡)に先行して交換過程にeingehenする時点で人格化が
> 発生するのか──という点にあるのだと思います。
>
> [*1]相互的承認時点というのは要するに商談時のことで
> す。“[ism-study.15] Re^2: On the "Person" etc.”
> (1999/08/02 11:57)及び“[ism-study.20] Re^4: On
> the "Person" etc .(1)”(1999/08/03 12:21)をご覧
> ください。マルクスのテキストに即しては,次の引用を
> ご覧ください。──「発展した交換取引では交換者たち
> は暗黙のうちに,平等な人格として,且つ彼らのそれぞ
> れによって交換されるべき財の平等な所有者として相互
> 的に承認し合っているということを,私は商品流通の分
> 析の際に述べた。彼らは互いに自己の財を提供し合い,
> 取引について互いに合議に達する間に,既にこれを行
> う」(Zu A. W.,S.377)。
>神山さんもよくご承知のよ
> うに,相互的承認がない商品譲渡は商品譲渡ではなく,
> ただのドロボーです。
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