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 神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。

>たしかに物象化とは、人格の物象化なのですが、それは、より大きくい
>えば、生産関係の物象化ですね。

 「大きくいえば」と言うのがよく解りませんが,大きく言おうと小さく言お
うと,人格の物象化というのは人格的生産関係──諸人格の生産関係──のこ
とです。だからこそ,人格なんて所詮はペルソナっていうのが説得力をもって
いるわけです。廣松さんの見解は異常でもなんでもなく,健全な社会常識だと
思います。異常なのは,ただ,廣松さんがマルクス主義者流に“ペルソナは階
級的な個人だ”と主張するということくらいのもんだと思います。
 それでは,こう言い換えましょう。──「諸人格の生産関係」と言う場合の
人格とは一体なになのですか? 物象でもないし,物象の人格化でもないです
よね? 俺の場合には,これこそが現象する──但し否定的に,疎外されて現
象する──べき類的本質あるいは労働する人格なのです。

>第1章第4節の人間はもちろん人格化とはよば
>ないのですよね

 もし「第1章第4節の人間」というのが人間と物とのクローズドな関係にお
いて“商品は生まれながらに価値を持つ”というように価値を物の属性として
知覚的に把握する人間のことを指しているのであれば,はい,呼びません。繰
り返しになりますが,俺が言う商品の人格化とは交換過程というオープンな場
面で発生します。

>あくまでも、
>疎外であり、矛盾、あるけどない、ですよね。だから、人格=「仮象」説
>に対して、物象化を措定する、物象化に先立つ人格がある、先に人格がな
>ければいけない、と強調することは、かえって、広松説に引きずられはし
>ないか、今井さんの問題意識に即しても、疑問の余地が生じるようにおも
>われます。

 第一に,「あるけどない」人格とは何であるのかということが問題なので
す。もしこれがアンサンブルであるならば,物象化の構造は完結してしまいま
す。実現されるべきアンサンブルに始まって(物象化するべき人格),実現さ
れたアンサンブルに終わってしまいます(人格化としての人格)。より正確に
言うと,始まりも終わりもない,こうして,廣松説は正しい。──こういうこ
とになってしまいます。違いますか?
 第二に,「あるけどない」そのあり方の区別が問題なのです。神山さんの理
論構造に即して言っても,「あるけどない」ということだけについて言えば,
物象の人格化としての人格──神山さんの場合には相互的承認において形成さ
れる──も「あるけどない」人格でしょう。なにしろ,人格と言っても物象の
人格化なのですから。違いますか? 
 こうして,俺にとっては,問題は「あるけどない」ということを大前提にし
た上で,その「あるけどない」ものの自己疎外の構造,転倒の構造を明確に
し,その上で「あるけどない」ものの中での自己区別をつけることになるわけ
です。