本文
神山さん,ISM研究会の皆さん,人格論についての議論も煮詰まってきまし
た。そこで,神山さんのお手を煩わせて申し訳ありませんが,お互いの対立点
をもう一度,確認しておこうと思います。どうも俺と神山さんとは問題意識を
広く共有しているのにも拘わらず微妙な部分で意見を異にしており,しかもこ
れに用語法の違いが加わって,俺の貧困な頭脳では議論がやや解りにくくなっ
ているように思われますので。
ISM研究会のみなさん,この話題は非常に重要であり,現代的な社会の認識
の際には避けては通れない問題だと思います──だからこそ俺と神山さんとが
論争しているわけです──が,かなり専門的であり,また論点も多岐に亘りつ
つあります。しかも,俺自身,最初から最後まで,すっかり頭が混乱してしま
っています。そこで,一段落ついたら浅川さんに論点整理とコメントをいただ
く予定です(宜しくお願いいたします>>浅川さん)。
目次
はじめに
1.物象化するべき人格について
2.商品所持者について
2.1「自由な自己意識」について
2.2アンサンブルとしての人格について
2.3経済的扮装について
2.4商品・貨幣・資本の人格化の区別について
参照文献
注
はじめに
さて,“[ism-study.34] Re: Re^2: A Confirmation About Person”
(1999/08/05 23:29)では神山さんは次のように述べています。──
>神山説は、人格に、承認性を不可欠に考えてみている。
同様にまた,同上投稿において,神山さんは次のようにも述べています。──
>承認に相関した規定が「人格」である、こう
>私は、かんがえてみているわけです。
一言で言うと,人格とは,俺の場合には相互的に承認する(それ故に相互的承
認の前に形成され,その資格で相手を承認する)主体(相互的承認を措定する
主体),神山さんの場合には相互的に承認した(あるいは相互的承認と同時に
発生している)主体(相互的承認によって措定された主体)のことである。
──これが神山さんと俺との間で最も鋭い対立をなす点でしょう。ここから,
第一に物象化するべき人格とは何のことであるのか,第二に物象の人格化とは
何のことであるのかという二つの点について,見解の相違が発生するわけで
す。
以下では,神山さんの見解を再確認するために,いくつか質問をしたいと思
います。恐らく俺の貧しい頭脳の理解力不足に基づく誤解も多いでしょうが,
手厳しく答えていただければ幸いです。
なお,このメールでは,注がかなり長くなってしまいました。そこで,読み
やすくするために,これまでの慣例に反して,注は文中に挿入するのではな
く,文末に纏めておきました。
1.物象化するべき人格について
結局のところ,(1)神山さんにとって,物象化するべき人格的生産関係を形
成している人格とは何でしょうか? (2)それはどのような意味で“人格”なの
でしょうか?
既に何度も述べているように[*1],俺にとっては,これは類的本質として人
格です。類的本質は承認されていようといまいと人格であると,俺は考えてい
ます。このように,人格を類的本質として把握するということによって,生産
過程でのその否定的な(=類からの自己の疎外としての)形成,交換過程での
商品所持者としてのその否定的な(=ペルソナとしての,つまり物象の人格化
としての)実存とを統一的に把握しようと,俺は考えています。
既に述べたように,俺の考えでは,人格の物象化は物象の人格化に先行する
のです。両者を媒介するのが広い意味での物神崇拝であり,これには物象の社
会的能動性を物の属性として知覚的に把握する意識だけではなく,単純商品流
通の諸表象も含まれます。
相互的承認との関連を言うと,既に述べたように,俺の考えでは,物象の人
格化としての人格はその資格(人格という資格)において相互的に承認し得る
ものであり,その本性(物象の人格的形態としての本性)において相互的承認
するべきものであり,相互的承認において自己を実証する(sich
bewähren)ものです。そして,結局のところ,物象化を媒介にして,物象
化するべき人格も,相互的承認において,人格としての自己を実証していると
いうことになります。
“あるけどない”ということとの関連について言うと,既に述べたように,
俺の考えでは,物象化するべき人格も物象の人格化としての人格も“あるけど
ない”人格であるという点では同じです。“あるからある”人格が成立するや
否や,既に共産主義社会が成立しています。また,“物象化するべき人格は
‘あるけどない’人格であるが,物象の人格化としての人格は‘あるからあ
る’人格だ”などと考えてしまっては,“結局のところ人格とは社会的諸関係
のアンサンブルでしかないのだ”ということになってしまいます。俺の考えで
は,問題は“あるけどない”という枠内での発生的な関連,その枠内での自己
区別です。物象化するべき人格が“あるけどない”のは自己から自己を疎外す
るからであり,物象の人格としての人格が“あるけどない”のは自己から自己
を疎外したからです。
俺のこの理論に従うと,神山さんの理論では,どうしても物象化するべき人
格が出てこないように思われるのです。俺の考えでは,物象化するべき人格,
つまり(俺の場合には)類的本質(そして労働する人格)は生産過程で類的か
らの疎外という自己否定的な形態で発生するのです。ところが,ここでの発生
は,誰がどう考えても,相互的承認を要件にしていないのです[*2]。
われわれの目の前にある現代的な社会的システムの発生においては──そし
て『資本論』の交換過程論ではこの発生が問題になっているわけです──,生
産過程では,類的な本質は疎外された形態で(類からの自己の疎外という形態
で)形成されていますが,相互的承認はいかなる意味でも行われません。この
ような発生においては,(神山さんにも同意していただけるはずですが)相互
的承認は専ら交換過程で行われるしかないと思うのです。もし相互的承認が部
分的に生産過程にも導入されるならば,それはシステムの発生の過程において
ではなく,システムそのものの自己止揚の過程においてであると,俺は考えま
す。もし相互的承認が全面的に生産過程に導入されているならば,既に現代的
な社会的システムは消滅してしまっていると,俺は考えます。
なお,ひょっとすると,神山さんは,俺と同様に,物象化するべき人格と物
象の人格化としての人格とを区別して,前者には相互的承認が要件ではない
が,後者には相互的承認が要件であると考えているのかもしれません(但し,
もしそうであるならば,それは前出引用と矛盾します)。けれども,それなら
ばそれで,(3)何故に前者(物象化するべき人格)には相互的承認が要件ではな
いのでしょうか? (4)どのような意味で前者は人格なのでしょうか? (5)前者
が相互的承認に先行して人格である以上,交換過程に入り込んだ(eingehen)
商品所持者も相互的承認に先行して人格であるのではないでしょうか?
既に述べているように,俺の場合には,物象化するべき人格と物象の人格化
との人格とは,物象化を媒介にして自己を疎外しているのかどうかということ
によって,区別されるのです。物象化するべき人格も物象の人格化としての人
格もどちらも社会形成主体[*3]という点では同じだと思うのです。但し,前者
が自己と他の自己との関係を諸物象の関係として疎外する社会形成主体である
のに対して,後者は既に諸物象の関係として自己疎外的に形成されている事実
的関係を自己と他の自己との自覚的・人格的関係として媒介的に実現する社会
形成主体であるという点で,両者は区別されるわけです。だからこそ,俺の場
合には,“人格の物象化”→“物象の人格化”という発生的な関連が決定的に
重要になってくるわけなのです。
“それでは,お前の場合には相互的承認はどのように位置付けられているの
か,お前は相互的承認という重大な契機を軽視しているのではないか”という
疑問が生じるかもしれません。確かに,俺の場合には,相互的承認は,それ自
体としては,両者を区別する徴表ではありません(既に何度も述べているよう
に,俺の理論では,相互的承認によって初めて措定される主体は人格ではな
く,私的所有者です)。しかし,相互的承認を軽視しているつもりは俺には全
くないのです。繰り返しになって申し訳ありませんが,既に何度も何度も述べ
ているように,俺の場合には,相互的承認は,物象の人格化としての人格が,
自己が人格であるということを実証する(sich bewähren)重大な契機,
社会を形成する主体が現実的に[*4]──交換関係として──社会を自覚的に
(但し無自覚性の枠内で)形成する[*5]のに不可欠であるような重大な契機な
のです。
2.商品所持者について
既に見たように,神山さんは,「人格に、承認性を不可欠に考えてみてい
る」(“[ism-study.34] Re: Re^2: A Confirmation About Person”)という
立場から,“商品所持者は人格だからこそ相互的に承認し得る”という俺の規
定に反対しています。そこで,相互的承認を行う主体の資格が問題になりま
す。すなわち,“[ism-study.26] Re:”(1999/08/04 20:42)の中では神山さ
んが次のように述べているように,──
>人格だから、相互承認できる、というのが今井さんで、商品の行動とし
>て自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格、ゆ
>えに、というのが私です[*6]
というわけです。
2.1「自由な自己意識」について
さて,“[ism-study.5] Re: On "Kabunusi Soukai"(OKUMURA Hirosi)”
(1999/07/22 16:31)の中で神山さんは次のように述べています。──
>かなり一般的。人格とは、自由な自己意識ということ。
これについて,“[ism-study.33] Re^2: A Confirmation About Person”
(1999/08/05 17:53)の中で俺は次のようにコメントしました。──
>ところが,俺の場合には相互的承認を行うべき主体が既に「個別的な自覚的
>個体性」かつ「一般的な実践的主体」であるのに対して,神山さんの場合には
>「自由な自己意識」は相互的承認によって初めて発生する──相互的承認の以
>前には人間は自由な自己意識ではない──はずなのです。
これに対して,“[ism-study.34] Re: Re^2: A Confirmation About
Person”(1999/08/05 23:29)の中で神山さんは次のように答えています。
──
>わかりました。
> 「自由な自己意識」=人格、という表現がややこしくなった原因かもし
>れませんね。自由な自己意識性が労働そのものの内的在り方なら、人格が
>先にある、ことになりますね。
そうだとすると,──神山さんの議論では「人格が先にある」ということにな
らない(相互的承認によって初めて人格が発生する)以上──,(i)結局のと
ころ,やはり「神山さんの場合には「自由な自己意識」は相互的承認によって
初めて発生する──相互的承認の以前には人間は自由な自己意識ではない
──」のですね?
質問(1)の回答がyesである場合(以下の質問(2)〜(4)は質問(1)の回答がno
である場合にはお答えしていただく必要はありません)。
もし自己意識が相互的承認によって初めて発生するのであれば,第一に,
(2)神山さんによると,「商品の行動として自己の行動をする疎外された自己
性、人間行動の媒介的意識的性格」をもつ当事者(商品所持者)はそれだけで
は──もし相互的承認を経ていないのであれば──,自由な自己意識をもって
いないのですね?
第二に,(3)神山さんの用語法では,(ヘーゲルなどの用語法とは異なっ
て)相互的承認を求める自己的な意識はまだ「自己意識」になってはいないの
ですね?
そうだとすると,(4)神山さんは承認を求める自己的な意識のことを何と呼
ぶのでしょうか?
質問(1)の回答がnoである場合(以下の質問(5)〜(7)は質問(1)の回答がyes
である場合にはお答えしていただく必要はありません)。
もし自己意識が相互的承認に先行して(相互的に承認するべき主体として)
発生しているのであれば,(5)神山さんの場合には,自己意識と人格とは区別
されており,自己意識の発生は人格の発生に先行しているのですね?
そうだとすると,質問1に戻ってしまいますが,(6)物象化するべき人格は実
は人格ではないのだということになりますね?
そうだとすると,(7)労働過程では自己意識は否定的・自己疎外的に形成さ
れるが,人格は交換過程でしか否定的・自己疎外的に形成されないということ
になりますね?
2.2アンサンブルとしての人格について
さて,既に見たように,神山さんの理論では,「商品の行動として自己の行
動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格」
(“[ism-study.26] Re:”)の発生は相互的承認を要件にしないのに対して,
人格の発生は相互的承認を要件にするということになります。
それならば,(1)──そしてもし相互的承認がないということを以て,物象
化するべき人格は人格でないと考えるならば(この仮定は質問1および質問2.1
への回答に依存します)──,神山さんの場合には,やはり“人格は社会的諸
関係のアンサンブルでしかない”ということになると思うのですが,いかがで
しょうか? 何故ならば,神山さんの理論に従うと,(a)交換過程での相互的承
認という形態で当の社会的諸関係を“現実的”に形成する主体は,──なるほ
ど「商品の行動として自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的
意識的性格」を持っている当事者ではあるが,しかし,それにも拘わらず
──,まだ人格ではない(相互的に承認し合って──その限りで現実的な社会
形成を行って──初めて人格になる)からであり,且つ,(b)社会的諸関係を
(交換関係に先行する)生産関係として“本源的”に形成している主体を想定
するとしても,当の本源的な形成の時点では当該主体は相互的に承認し合って
はおらず,従ってまた(神山さんがおっしゃる)「人格」でもないはずだから
です。
あるいは,(2)もし物象化するべき人格は(相互的承認がないのにも拘わら
ず)人格であるならば,神山さんの場合には,“少なくとも交換過程の内部で
は,人格は社会的諸関係のアンサンブルの相互的関連の中に留まり続けるので
あって,社会的諸関係を発生的に形成する主体ではない”ということになると
思うのですが,いかがでしょうか? 何故ならば,神山さんの理論に従うと,
商品所持者が(物象の人格化としての)人格ではない以上,人格は相互的承認
によって措定されたものでしかなく,この相互的承認を措定するものではない
からです。
人格[*7]が「その現実性においては」社会的諸関係のアンサンブルであると
いうことは,俺も全く否定しないのです。商品所持者は,物象(的諸関係)の
人格化である以上,相互的承認の前であろうと後であろうと,社会的諸関係の
アンサンブルです。相互的承認において発生する私的所有者が社会的諸関係の
アンサンブルであるということは,言うまでもありません。しかし,既に述べ
たように,人格は社会的諸関係のアンサンブルとして──単純商品流通の中で
社会的諸関係によって形成されたものとして──実存していながら,絶えずこ
の社会的諸関係を単純商品流通の枠内で形成しているということを通じて,同
時にまた社会形成の発生源を指し示していると思うのです。発生的関連におい
ては,社会的諸関係の真っ只中で,社会的諸関係のアンサンブルでありなが
ら,当の社会的諸関係を形成している主体が露出していると思うのです。俺の
場合には,ここに,意志と意識とが与えられた商品である商品所持者の決定的
な意義があるわけです。“人格とは社会的諸関係のアンサンブルである”とい
う理論(関係主義的理論)に反論するためには,やはり社会的諸関係そのもの
の形成過程を発生的関連において探るということが必要だと思います。
承認との関連を言うと,そもそも人格は本源的な社会形成主体(但し自己疎
外する類的本質)である以上,承認という形態で社会形成を行う主体も人格
(但し物象の人格化としての人格)だと俺は考えるわけです。物象化という回
り道を通って言うと,本源的な社会形成主体にも,承認する主体としての位置
を与えることができます。
もちろん,──こういう質問をしておいて言うのもなんですが──,神山さ
んご自身は“人格とは社会的諸関係のアンサンブルのことである”とは考えて
いないと思うのです。しかし,もし「人格に、承認性を不可欠に考えてみてい
る」ならば,どのようにして“人格とは社会的諸関係のアンサンブルのことで
ある”という命題を乗り越えるのか,俺にはよく解らないから,上記のような
質問をした次第です。
2.3経済的扮装について
俺は“[ism-study.15] Re^2: On the "Person" etc.”(1999/08/02
11:57)の中で次のように述べました。──
>俺がペルソナと言うときに念頭に置いているのは,
>マルクスが用いているCharaktermaskという名詞です。
>──「一般に展開の進展に連れて,われわれは,諸人格
>の経済的扮装はただ経済的諸関係の人格化であるのに過
>ぎず,諸人格はこの経済的諸関係の担い手として互いに
>相対するということを見出すであろう〔Wir werden
>überhaupt im Fortgang der Entwicklung finden,
>daß die ökonomischen Charaktermasken der
>Personen nur die Personifikationen der
>ökonomischen Verhältnisse sind, als deren
>Träger sie sich gegenübertreten.〕」
>(KI (2. Auflage), S.114)。「この両局面のどちらで
>も,商品と貨幣という同じ二つの物象的エレメントが対
>峙しており,また買い手と売り手という同じ経済的扮装
>をまとった二人の人格が対峙している〔In jeder der
>beiden Phasen stehn sich dieselben zwei
>sachlichen Elemente gegenüber, Waare und
>Geld, --- und zwei Personen in denselben
>ökonomischen Charaktermasken, ein Käufer
>und ein Verkäufer.〕」(KI (2. Auflage),
>S.166)。
これについて,神山さんは“[ism-study.17] Re^3: On the "Person" etc.”
(1999/08/02 18:53)の中で次のように述べています。──
>経済的扮装は、重要ですね。私は、物象の媒介の必然的な位置価におかれ
>たものというふうにおもってます。
これについて,俺は“[ism-study.20] Re^4: On the "Person" etc .(1)”
(1999/08/03 12:21)の中で次のように述べています。──
>おっしゃる通り,重要だと思います。言葉の使い方のつまらない違いで議論
>がすれ違ってしまうのはよくないので,俺の用語法を明示しておきます。俺の
>用語法では,「経済的扮装」はすなわちペルソナであり,交換過程に現れた商
>品所持者・貨幣所持者のことです。で,上に述べたように,商品所持者・貨幣
>所持者は交換過程(=オープンな社会)に出てきた瞬間に既に物象の人格化な
>のです。
> ここがちょっと俺と神山さんとで違うところなのではないでしょうか。恐ら
>く神山さんにとっては,まだ法的ではないような経済的な扮装はまだ物象の人
>格化としての人格ではないのだと思います。
> 「物象の媒介」というのは人格的な媒介のことですよね? それならば,こ
>の「位置価」というのも俺と神山さんとの間でちょっと違うのかもしれませ
>ん。俺の場合には,相互的承認するべき人格──相互的承認によって措定され
>た人格ではなく──という「位置価」なのです。
さて,(1)神山さんにとって経済的扮装とは何なのでしょうか? 明らかに,
それは対他的な,社会的な扮装です(商品に対して扮装を付けて振る舞うなん
てことはあり得ません)。ところがまた,これは法的な扮装ではありません。
既に述べたように,俺にとっては,これこそは既に商品の人格化なのです。
更に,(2)神山さんは「経済的扮装」が「物象の媒介の必然的な位置価にお
かれたもの」であると述べていますが,それはどのような媒介なのでしょう
か? 既に述べたように,俺にとっては,それこそは人格的な媒介なのです。
2.4商品・貨幣・資本の人格化の区別について
既に見たように,神山さんの場合には,少なくとも物象の人格化としての
人格は相互的承認によって発生します。
相互的承認では,商品所持者も貨幣所持者も資本家も私的所有者として抽
象化されます。このことが一番ハッキリと現れるのは資本家においてでしょ
う。単純商品流通が単純商品流通として成立している限りでは──すなわち
労働市場が市場として現れている限りでは──,資本家は資本に対する私的
所有者として承認されるわけでは決してなく,私的所有者一般としてしか承
認され得ないはずです[*8]。このように考えてみると,商品の人格化,貨幣
の人格化,資本の人格化という人格化の区別は相互的承認から独立的である
ように思われます。
ひょっとすると,商品の人格化も貨幣の人格化も資本の人格化も人格として
は同じだろうと考える方もいるかもしれません。しかし,物象の区別に応じ
て,それらの人格は現実的に区別された振る舞い(商品所持者は商品を売る,
貨幣所持者は商品を買う,資本家は労働力商品を買って搾取する)をするわけ
です。物象の区別に応じて,それらの人格は──俺の考えでは──,交換過程
での相互的承認では私的所有者として同じ振る舞いをしているのにも拘わら
ず,それでもやはり人格として(行為当事者として)異なる振る舞いをするわ
けです。
さて,(1)もし商品所持者・貨幣所持者・資本家の間で相互的承認における
振る舞いに区別がないのであれば,商品の人格化と貨幣の人格化と資本の人格
化とはどのように区別されるのでしょうか? と言うのも,どうも俺の理解が
根本的に間違っているのかもしれませんが,神山さんの主張に従うと,次のよ
うな関連が成立しないと,論理一貫しないように思われるからなのです。──
人格は相互的承認によって発生する。
↓
商品の人格化・貨幣の人格化・資本の人格化は(交換過程での)相互的承認に
よって発生する。
↓
当事者が所持している物象の区別(商品・貨幣・資本)に応じて相互的承認の
(態様の)区別が発生するからこそ,商品の人格化・貨幣の人格化・資本の人
格化という区別も発生する。
あるいは,(2)もし商品所持者・貨幣所持者・資本家の間で相互的承認におけ
る振る舞いに区別があるのであれば,それはどのような区別なのでしょう
か? と言うのも,既に述べたように,俺の理解では,第1巻1篇2章「交換過
程」における相互的承認は,取引相手がその物件(=物象)に対する正当な私
的所有者であるということを承認し合うということであって,その物件(=物
象)が商品であるのか,貨幣であるのか,資本であるのかという区別はこの相
互的承認にとってはどうでもいいことであるように思われるからなのです。
なお,ご承知のように,俺の場合には,商品所持者が商品の人格化ですか
ら,貨幣所持者も貨幣の人格化,資本家も──「意志と意識とが与えられた資
本」([KI (2. Auflage), S.171)である限りで──資本の人格化というよう
に,(相互的承認における態様の区別ではなく)物象の区別に応じて人格化の
区別が導出され得るわけです。
参照文献
KI (2. Auflage), Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie.
Erster Band. Hamburg 1872, In: MEGA^2 II/6.
Resultate, Sechstes Kapitel. Resultate des unmittelbaren
Produktionsprozesses, Das Kapital (ökonomisches Manuskript
1863--1865) Erstes Buch, ökonomische Manuskripte 1863--1867.
Teil 1, In: MEGA^2 II/4.1.
注
[*1]“[ism-study.15] Re^2: On the "Person" etc.”
(1999/08/02 11:57)では俺は次のように述べていま
す。──
>どう
>にかして物象化するべき人格に類的本質(本源的な社会的関係形成主体)を,
>また人格の物象化としての人格に社会関係のアンサンブルを割り当てたい
“[ism-study.21] Re: On Labor Power, HIROMATU
etc.”(1999/08/03 12:51)では俺は次のように述べて
います。──
>こ
>れに対して,人格(類的本質)は自己的に把握された自己なのです。
“[ism-study.36] Re^2: An Answer To 3 Questions”
(1999/08/06 09:52)では俺は次のように述べていま
す。──
>それでは,こう言い換えましょう。──「諸人格の生産関係」と言う場合の
>人格とは一体なになのですか? 物象でもないし,物象の人格化でもないです
>よね? 俺の場合には,これこそが現象する──但し否定的に,疎外されて現
>象する──べき類的本質あるいは労働する人格なのです。
“[ism-study.37] Re^4: A Confirmation About
Person”(1999/08/06 09:52)では俺は次のように述べ
ています。──
>俺は類的本質=人格として把握し,類的本質=労働する人
>格として把握するから,俺の議論では「人格が先にある」ということになるわ
>けです。
“[ism-study.41] Re^4: A Confirmation About
Person [PS][Resent]”(1999/08/06 20:50)では次の
ように述べています。──
>「「物象というものを措定する人格」〔社会的実践主体〕は,結
>局」,類的本質だと考えています。そして,類的本質は労働する人格であると考
>えています。
同様にまた,同上投稿では俺は次のようにも述べていま
す。──
>“物象化するべき人格
>は類的本質だ”
[*2]なお,“[ism-study.9] Re: On the "Person"
etc.”(1999/07/26 20:41)の中で神山さんは次のよう
に述べています。──
>労働の産物は人格性の発露です。自己と対象物との相互承認。しかし商
>品生産では、産物とそれをつくった人格とは疎遠です。
ここでの「人格」こそが俺が問題にしている人格なので
しょう。ひょっとすると,神山さんは労働過程では「自
己と対象物との相互承認」があるから人格が発生してい
るのだと考えているのかもしれません(もし誤解でした
ら申し訳ありません)。
しかし,第一に,この「自己と対象物との相互承認」
が交換過程での諸人格の相互的承認とは異なるというこ
とは明らかです。俺は,交換過程で述べられている相互
的承認はそれ自体としては現実的な関係であるが,その
前提として意識的な相互的関係(通常に用いられている
ような意味での承認,つまり意識における承認)を含む
と考えています。ところが,労働過程での(神山さんが
おっしゃる)「相互承認」には諸人格の相互的承認が決
定的に欠如しています。俺は労働過程では相互的に承認
されていないような人格が否定的に形成されると考えま
す。
第二に,そもそも,「自己と対象物との相互承認」と
いう神山さんの表現自体に俺は反対します。何故なら
ば,「対象物」の方が自己の何を承認するのか不明だか
らです。労働過程では,(神山さんがおっしゃる)「承
認」をするのは相互的なものではなく,自己の一方的な
行為であるように思われます。俺の場合にも,労働過程
では自己が対象化する(vergegenständlichen)の
と同時に,対象もまたが自己化する(aneignen)のです
が,この二重化を統一しているのは自己の側です。
なお,以上では,神山さんがおっしゃる「対象物」に
は,非自己としての対象物(労働手段・労働対象)のみ
を想定してきました。たとえ仮に神山さんがおっしゃる
「対象物」に自己としての他の労働者が含まれていると
しても,結論は同じです。他の労働者が「対象物」とし
て──単なる生産力要因として──現れている限りで
は,労働者たちは,互いが人格(=自己)であるという
ことを人格(=自己)という資格で相互的に承認し合う
わけではないからです。
[*3]なお,“[ism-study.20] Re^4: On the "Person"
etc .(1)”(1999/08/03 12:21)の中で俺は商品所持者
が(物象の人格化としてではあっても,それでもやは
り)人格である理由を次のように述べています。──
>一方では社会を形成する一般的な実践的主体(相互的承認において
>他の人格を承認することができる個人)であり,他方では自分で責任を負うこ
>とができる個別的な自覚的個体性(意志と意識とを持ち自ら責任を負って自立
>的・独立的に行為することができる個人)である
このように,厳密に言うと,人格は単なる社会形成主体
ではなく,自己の行為として社会を形成する自覚的な個
人のことです。すなわち,人格とは上記の一般性と個別
性とを統一している自然的個人(自然人)のことです。
本来的には,資本は人格ではありません。
但し,第一に,資本主義的生産では,物象こそが事実
的に能動的な主体であるから,物象化と人格化とがやが
て対立するようになり,遂には資本という物象が形態と
しての人格を獲得するようになります。社会形成という
形態的契機は正に形態的であるからこそ形骸化し,自然
的個人という根拠から自立化し,遂には自然的個人では
ない資本が法的人格を獲得するようになるわけです。こ
うして,資本主義的生産では,正に物象化と人格化とが
分離しているからこそ,人格に不可欠な自然人性(自然
人であるという性質)が不明確になるわけです。
第二に,資本主義的生産に先行する共同体(封建制・
奴隷制など)では,資本主義的生産と同様に自己は疎
外・物象化されているのにも拘わらず,資本主義的生産
とは異なってこの疎外・物象化は徹底していないから,
物象化と人格化とが分離せずに,共同体の臍の緒から独
立していない個々の人間が人格として承認されるのかど
うかということは偶然的になります。そこで,時には被
差別民は非人格として表象され,時には逆に“奴隷も人
格である”と表象されるわけです。こうして,資本主義
的生産に先行する共同体では,逆に,正に物象化と人格
化とが分離していないからこそ,却って人格に不可欠な
独立性が不明確になるわけです。
[*4]“[ism-study.33] Re^2: A Confirmation About
Person”(1999/08/05 17:53)の中で,相互的承認が
──単に認識的なものであるだけではなく──現実的な
ものでもあるということを,俺は強調しています。承認
(anerkennen)と言うと,どうしてもわれわれは認識
(erkennen)の枠内のことを連想してしまいます。しか
し,──これはマルクス解釈として妥当であるのかどう
か,甚だ疑問ですが──,俺自身の理論では,交換過程
での相互的承認は現実的な自覚的行為(相手を頭の中で
自由・平等な私的所有者として認めた上で,相手に対し
て自由・平等な私的所有者に対する仕方で関係する行
為)として位置付けられます。
[*5]ヨリ正確に言うと,交換過程で社会形成するという
ことは社会形成を交換という現実的行為の中で自覚化す
るということです。但し,商品所持者たちは無自覚性の
枠内でこれを自覚化するわけです。すなわち,商品所持
者たちは社会形成の発生源(=生産)から疎遠な仕方
で,この発生源そのものには無自覚なままで,しかも交
換という私的な個別的行為を通じて,これを自覚化して
いるわけです。
[*6]厳密に言うと,俺の説は「人格だから、相互承認で
きる」というのではなく,“商品の人格化として人格だ
から,相互承認できる”ということです。
“[ism-study.20] Re^4: On the "Person" etc .(1)”
(1999/08/03 12:21)の中では俺は次のように述べてい
ます。──
>商品の人格化(またその限りで人格)だから相互的に承認することができる
また,“[ism-study.28] A Confirmation About
Person”(1999/08/04 23:26)の中では俺は次のように
述べています。──
>但し,──これは強調しておきたいので
>すが──,商品の人格化である限りで「人格だから、相互承認できる」という
>のが俺の説です。
ここでは,文脈から,「強調」された部分が,神山さん
の元発言に俺が追加した部分──すなわち「商品の人格
化である限りで」という部分──であるということが明
白です。また,“[ism-study.37] Re^4: A
Confirmation About Person”(1999/08/06 9:52)の中
では俺は次のように述べています。──
>俺の場合には,商品所持者は物象の人格化として人格だからこそ,相互的承
>認をすることができ,またこの相互的承認によって自己が人格であるというこ
>とを実証する
また,同上投稿の中で俺は次のように述べていま
す。──
>こういうわけで,“そもそも人間一般が,そのままの資格で,流通過程で相
>互的承認なんかできるのかいな,物象化の人格として既に人格であるからこ
>そ,相互的承認することができるんじゃないかな”と考えているわけです。
以上,総ての場合について,“物象の人格化”という限
定が強調されているということにご留意ください。
なお,“[ism-study.15] Re^2: On the "Person"
etc.”(1999/08/02 11:57)の中では俺は,──
>商談に先行して,生産過程からでてきた瞬間に,商品所持者が商品の人格
>化としての人格になっているのです。商品所持者は,相互的に承認し合うから
>こそ人格になるのではなく,人格であるからこそ相互的に承認し得るわけで
>す。
と述べています。しかし,文脈から見て,「人格である
からこそ」と言う場合の「人格」が前文の「商品の人格
化としての人格」であるということはご理解いただける
ものと考えます。同様に,同上投稿の中で俺は,──
>ここでは,交換過程に登場する商品所持者たちが,(1)商品の人格化であ
>るということ,(2)正に既に人格であるからこそ,人格として相互的に承認さ
>れ得るということ,(3)それを通じて(このような回り道を通って)人格とし
>て自己を実証するということ──これらの点を,俺の主張のポイントとして確
>認しておきます。
とも述べています。ここでも,文脈から見て,「(2)正
に既に人格であるからこそ」と言う場合の「人格」が全
文の「(1)商品の人格化である」ということを受けての
発言であるということはご理解いただけるものと考えま
す。
[*7]なお,マルクスのテキストにおいては主語は人格で
はなく,「人間的本質」になっています。テキストの訳
文・原文については,“[ism-study.15] Re^2: On the
"Person" etc.”(1999/08/02 11:57)をご覧くださ
い。結局のところ,突き詰めて考えると,この「人間的
本質」とは類的本質のことであると,俺は解釈していま
す。これに対して,人格という概念は,類的本質(社会
を形成する主体)とアンサンブルまたはペルソナ(社会
によって形成された主体)との──物象化するべき人格
と物象の人格化としての人格との──両者を包含してい
るわけです。
[*8]“そのようなものとして現れている”ということと
“そのようなものとして相互的に承認し合っている”と
いうこととは全く異なるわけです。第1巻2篇4章「貨幣
の資本への転化」においては,労働市場では,資本家は
資本の人格化として(事実的に,事実上)現れています
が,資本家として承認されているわけでは決してありま
せん。だからこそ,俺は相互的承認によって発生する私
的所有者と人格とを区別するのです。
マルクスは次のように述べています。──「資本家と
労働者とはただ買い手つまり貨幣と,売り手つまり商品
としてのみ市場で相対するのだとは言っても,この関係
は彼らの取引の独自的な内容によって始めから独自なも
のとして〔eigen〕色付けられている。しかも,資本主
義的生産様式では,両者が市場に同じ相対立する規定を
もって登場するということが恒常的に繰り返されるとい
うこと,すなわち恒常的なものであるということが前提
されているから,ますますこの関係は独自なものとして
色付けられているのである。〔……〕ところが,これに
対して,労働市場では,労働者に対して貨幣は常に資本
の貨幣形態として相対するのであり,従って貨幣所持者
は人格化された資本として,資本家として労働者に対し
て相対するのであって,それと同様に,労働者は労働者
でまた労働能力の,従って労働の単なる人格化として,
労働者として貨幣所持者に対して相対するのである。
〔……〕単なる買い手と単なる売り手とが対峙するので
はなく,資本家と労働者とが買い手と売り手として流通
部面で,市場で相対するのである。資本家と労働者とし
ての彼らの関係が買い手と売り手としての彼らの関係に
とっての前提なのである。〔……〕現実的な富──交換
価値という面から見ると貨幣,使用価値という面から見
ると生活手段および生産手段──が人格として,富の可
能性である労働者に対して,すなわち労働能力に対し
て,他の人格に対して相対するのである〔Obgleich
sich Capitalist und Arbeiter nur als Käufer,
Geld, und Verkäufer, Waare, auf dem Markt
gegenübertreten, so ist dieses
Verhältniß durch den eigenthümlichen
Inhalt ihres Handels von vorn herein eigen
gefärbt, um so mehr, da bei der
capitalistischen Productionsweise vorausgesezt
ist, daß das Auftreten beider Seiten auf dem
Markt in derselben entgegengesezten Bestimmung
sich beständig wiederholt oder ein
beständiges ist. [...] Aber auf dem
Arbeitsmarkt dagegen tritt ihm das Geld stets als
Geldform des Capitals gegenüber und daher der
Geldbesitzer als personnificirtes Capital,
Capitalist, wie er seinerseits dem Geldbesitzer
als blosse Personnification des
Arbeitsvermögens und daher der Arbeit, als
Arbeiter gegenübertritt. [...] Es ist nicht
ein blosser Käufer und ein blosser
Verkäufer, die sich gegenüberstehn,
sondern es sind Capitalist und Arbeiter, die sich
in der Circulationssphäre, auf dem Markt, als
Käufer und Verkäufer gegenübertreten.
Ihr Verhältniß als Capitalist und Arbeiter
ist die Voraussetzung für ihr
Verhältniß als Käufer und
Verkäufer. [...] Der wirkliche Reichthum, dem
Tauschwerth nach betrachtet, Geld, dem
Gebrauchswerth nach betrachtet, Lebensmittel und
Productionsmittel --- tritt als Person dem
Arbeiter, der Möglichkeit des Reichthums,
d.h. dem Arbeitsvermögen, einer andren Person
gegenüber.〕」(Resultate, S.89--90)。
このように,資本家と労働者とは,取引の形式に即し
ては貨幣所持者(貨幣の人格化)および商品所持者(商
品の人格化)として事実的に相対し合い,その上で,取
引の内容に即しては資本家(資本の人格化)および賃金
労働者(労働力商品の人格化)として事実的に相対し合
う。この相対する(gegenübertreten)という──
価値形態論での用語を使うならば妥当する(gelten)と
言ってもいいでしょう──事実的関係は,承認する
(anerkennen)という自覚的関係からは区別されると,
俺は考えます。
もちろん,後には,労働者は労働者として承認される
ように,また資本家は資本家として承認されるように,
争うようになります(第1巻3篇8章1節「労働日の諸限
界」)。しかし,これは生産過程の敵対的社会性が流通
過程でも暴露された事態です。だからこそ,当事者が市
場で知っているただ一つの法則である「商品交換の法
則」(KI (2. Auflage), S.240f)ではカタがつかず
に,「暴力が事を決する」(ebenda, S.241)というこ
とにならざるを得ないわけです。第8章1節は第3篇「絶
対的剰余価値の生産」に置かれてはいますが,その十
分な理解のためには,明らかに,第4,5,7篇での敵対
的な社会的生産の発展と当事者意識に対するその暴露
とを前提しています。