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 神山さん,お忙しい中での投稿,どうもありがとうございます。先ず,前回
の投稿に対するお返事が遅れたことをお詫びします。
 今見たら神山さんから新しい投稿があり,ちょっと神山さんの見解が変更さ
れたとしか俺には思えないのですが,取り敢えず,以前の神山さんの見解に対
してお返事しておきます。新しい投稿に対するお返事は暫くお待ちください。

1.用語問題について
2.廣松批判について
3.その他

1.用語問題について

>人間の類的能力、自然の人間的本質、人間
>の自然的本質、人間の形態規定性、労働する存在、人格的関係行為を行う存在、これらを
>人格を呼ぼうと呼ぶまいと、用語の問題でしょう。

 俺としては,そもそも神山さんの用語法がまだ俺にとっては明確にはなって
いないから,その確認のために質問したのです。と言うのも,もし人格の物象
化と物象の人格化というフレームワークを用いるならば,当然に物象化するべ
き人格とは何のことであるのかということが明確になっていなければならない
と考えたからです。既に述べたように,俺の考えでは,物象化するべき人格と
は疎外された労働において(しかも疎外された労働によって)自己否定的に形
成されている類的本質のことです。従って,たとえ仮に「これらを人格を呼ぼ
うと呼ぶまいと、用語の問題で」あるとしても,これらを人格と呼ぶのか呼ば
ないのかということは明確にしなければならないと考えたわけです。そして,
もしそれを人格と呼ばないならば,その用語法に即して人格の物象化というフ
レームワークを整理し直す必要があると,俺は考えます。
 明らかに,物象の人格化と人格の物象化というフレームワークは,物象化す
るべき人格と物象の人格化としての人格(俺の考えでは社会関係のアンサンブ
ル)との同一性を前提しています。どちらも人格であるわけです。そして,俺
の考えでは,既に述べたように,発生的関連においては,物象化するべき人格
とは類的本質のことであり,また物象の人格化としての人格は社会的諸関係の
アンサンブルのことです。すなわち,上述のフレームワークは正反対のもの
(物象的に社会的な生産関係を措定するものと物象的に社会的な生産関係によ
って措定されたもの,つまり,一言で言うと,社会を措定するものと社会によ
って措定されたもの)が“一つのもの”(どちらも人格)であるということを
前提しています。

>また、所持者を人格化と呼ぼうと、所有者を人格化と呼ぼうと、それも内容に即し
>て理解されればいいことのようにおもわれます。

 了解いたしました。これについては,俺の方ではちょっと誤解がありまし
た。“[ism-study.17] Re^3: On the "Person" etc.”(1999/08/02 18:53)
の中で神山さんは次のように述べています。──

>今井さんは、生産過程から出てきた商品所持者、商品の「番人」が、商
>品の人格化で、法的契機を含まずに、相互承認を含まずに、人格で、それ
>が先にあって…、というふうに把握されていらっしゃる、と理解してよい
>でしょうか。法に先行する経済的人格化のような関係をお考えですか。そ
>の場合、「人格」とは何ゆえ、「人格」であるということになるのでしょ
>うか。

また,“[ism-study.34] Re: Re^2: A Confirmation About Person”
(1999/08/05 23:29)の中で神山さんは次のように述べています。──

>これに対して、神山説は、人格に、承認性を不可欠に考えてみている。

これらの発言から,神山さんは私的所有者を人格化と呼ぶ用語法にこだわって
いるのかと,俺は考えていました。これは誤解でした。失礼いたしました。
 さて,既に述べたように,そもそもの俺の質問の趣旨は用語法を明確にして
欲しいということであったのです。そもそも用語が指している概念が明確でな
いと内容の理解も不可能ではないでしょうか。とは言っても,せっかく神山さ
んが“用語法はどうでもいいのだ”という根本的な問題を提起してくださった
ので,それに即して,対立点を浮き彫りにするために,両者の主張をやや図式
的に再定式化します。──
 神山説:取り敢えず,人格は相互的承認によって発生するというように定式
化しておく。人格は生産においては発生しないし,また交換過程に現れただけ
でも発生しない[*1]。とは言っても,問題は内容の理解であって,用語法はど
うでもいい。

[*1]なお,神山さんは,──

>ただ、私の論議も
>最初は、承認性、社会関係を形成する、人格的本質、人格的能力も、実現された人格性も
>、どちらも、人格という言葉で表してもいいと考えてました。

と述べています。「最初は」そう考えていたのだが,
“現在では”そう考えてはいないと,ここでは解釈しま
す。

 今井説:人格は相互的承認に先行して発生する。物象化するべき類的本質と
しての人格は労働において(労働する人格として),但し否定的に(自己から
の類の疎外として)発生する。しかし,物象は正に人格的生産関係の物象化で
あるからこそ,人格化せずにはいられない。他の人格概念など認めない。何故
ならば,用語法は内容の理解を制約するからである。
 こういったわけで,俺は,第一に,“たとえ仮に用語がどうでもいいことで
あるとしても,先ずは用語を明確にしなければならない”ということを主張し
ます。第二に,“人格のような決定的なキーワードにおいては,用語の意味内
容の違いが理論の違いにまで行き着かざるを得ない”ということを主張しま
す。なお,第一の問題についてはこれまでにさんざん問題にしているから,以
下では,主に第二の問題──神山さんの“[ism-study.50] Re: Questions 
About "Person"”(1999/08/21 18:28)に基づいて俺が提起する問題──を取
り扱います。
 先ず,用語法がいかに重要であるのかということを立証するために,論より
証拠,以下では神山さんご自身の用語法に基づいて神山さんの理論を論駁した
いと思います(神山さんの理論には人格概念を全く別にしても,俺の理論とは
異なる点がいくつかあるのですが,それはここでは全く問題にしません)。そ
の際に,以下では,(a)神山さんがご自身の用語法を用いてご自身の理論を展
開している(つまり今井の用語法におもねた表現を用いていない)と仮定しま
す。(b)また,──これは“[ism-study.49] Questions About "Person"”
(1999/08/18日 11:39)のいくつかの質問にまだお答えをいただいていない段
階では余りフェアではないのかもしれませんが──,神山さんの用語法を次の
ように解釈しておきます。──人格は交換過程での相互的承認によって発生す
る(人格とは法的人格のことでしかない)。それ故に,諸物象の関係として現
れるのは諸人格の関係ではないし,相互的に承認する主体も諸人格ではない。
 なお,人格概念の展開(そしてそれによる人格の諸契機の統一的把握と人格
の自己矛盾の把握)というのは俺にとっては生命線ですから,以下では,やや
戯画的な表現と受け取られるかもしれないような表現があります。もちろん,
俺自身,“神山さんがこんな風に考えているわけがないなぁ”と思いながら書
いているわけです。ですが,人格概念の展開の必要性を訴えるためには止むを
得ざる表現だということで,どうかお許しください。

>交換過程の法的人格は、社会的諸関係でしかないもの、ではありません。自己規定であ
>って、自由な主体です。

 先ず,「交換過程の法的人格は、社会的諸関係でしかないもの、ではありま
せん」について。法的人格は俺の場合にも神山さんの場合にも相互的承認によ
って発生します。この点では,俺と神山さんとの間に用語上の違いはありませ
ん。対立点は“人格とは法的人格でもあるものである”と考える(今井説)の
か,それとも“人格とは法的人格でしかないものである”と考える(神山説)
のかという点にあります。
 神山さんの場合には,法的人格は相互的承認によって形成されるわけだか
ら,社会的諸関係のアンサンブルなのです。そして,人格は,相互的承認によ
って発生する以上,法的人格以外にあり得ないわけだから,「社会的諸関係
〔のアンサンブル〕でしかないもの」なのです。なにしろ神山さんの場合に
は,発生的関連においては承認する主体は人格ではなく,人格以外のなにもの
かです。神山さんの場合には,人格は直接的生産過程でにおいて生産関係を結
ぶ主体ではないだけではなく,交換過程で交換関係(但し商品の現実的譲渡に
おける関係ではなく相互的承認における関係)を結ぶ主体ですらないわけで
す。(a)もちろん,後にはこの発生的関連は相互的関連に展開します──第一
の取引で法的人格という規定を受け取った主体が第二の取引で新たに承認を行
うようになります──が,しかしそれにしても承認する主体は,神山さんの場
合には,人格としての資格で承認するのではなく,それ以外の資格で承認する
わけです。神山さんの場合には,どの取引においても人格は相互的承認によっ
て──両取引相手の相互的関係(相関)によって──措定されたものでしかあ
りません。(b)同様にまた,法的人格は有権者として政治的社会関係を形成す
る主体として現れるようになります。しかしまた,当の法的人格そのものは関
係(しかも相関としての関係)によって形成された主体であるということに,
変わりはありません。──このように,どういう風に考えても,神山さんの場
合には,「交換過程の法的人格は、社会的諸関係〔のアンサンブル〕でしかな
いもの」(つまり社会的諸関係によって措定されたのに過ぎないもの)である
ように思われるわけです。
 俺の場合にも,法的人格は相互的承認によって発生します。だから,──人
格は「社会的諸関係〔のアンサンブル〕でしかないもの」ではありませんが
──,“法的”人格は「社会的諸関係〔のアンサンブル〕でしかないもの」で
す(俺の場合には,法的人格と人格とが区別されているということを想起して
ください)。もし人格が法的人格でしかないのであれば,“人格は社会的諸関
係のアンサンブルでしかない”という考えは至極妥当・正当だと,俺は考えて
います。なお,法的人格は,たとえ何千回何万回と新たに交換を繰り返そうと
も,またたとえ交換関係以外の関係(例えば政治的関係)を形成しようとも,
やはりそれ自体としては結局のところ,相互的承認によって形成された社会的
関係のアンサンブルでしかありません。法的人格も関係を形成する主体です
が,この当の主体自身は関係によって形成された主体です。つまり法的人格は
関係によって形成された主体として関係を形成するのに過ぎないわけです。だ
からこそ,俺は法的人格に対して商品所持者を,また商品所持者に対して類的
本質を人格として規定し,その自己疎外の発生的関連を探ろうとしているわけ
です。
 次に,「自己規定であって、自由な主体です」について。「自己規定」とい
うのは相互的承認において自己を規定するということであると,俺は解釈しま
した。と言うのも,神山さんの用語法では,人格について言及する際には,そ
れ以前の──例えば労働における──「自己規定」は問題外になる(労働過程
では相互的承認が行われておらず,しかるに人格の要件は相互的承認である以
上)はずだからです。
 神山さんの場合には,少なくとも相互的承認において自己規定しているのは
人格以外の何か別の主体です。但し,神山さんご自身の用語を用いると,それ
は「商品の行動として自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的
意識的性格」(“[ism-study.26] Re:”)をもっている主体であるのでしょ
う。これに対して,人格の方はそのような主体によって規定されたものでしょ
う。しかも,神山さんの場合には,人格は,相互的承認によって措定されるの
ですから,他の──この主体とは別の──主体(=取引相手)によって規定さ
れたものでしょう。さて,法的人格は法的人格を獲得した後にも,何百回何千
回と相互的承認を繰り返すでしょうが,やはりそのたびごとに,法的人格は法
的人格としての資格においてではなく,「商品の行動として自己の行動をする
疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格」をもっている主体としての
資格において,自己を法的人格として再規定する──しかも他の主体(=取引
相手)による承認を通じて再規定する──わけです。こうして,いずれにせ
よ,人格は「自己規定であ」るという神山さんの命題は,神山さんの用語法に
即しては,間違いだということになります。

>私が、人格を関係に反省したものと述べても、別に、関係主義的に関係に拘
>束された結節点という意味で言っているわけではありません。人格が主体概念であること
>はいうまでもないことです。

 神山さんの場合には,人格は,相互的承認を措定するのではなく,相互的承
認によって措定されるわけだから,──つまり関係を形成するのではなく,関
係によって形成されるのだから──,「関係主義的に関係に拘束された結節点
という意味」しかもちません。もし「関係主義的に関係に拘束された結節点と
いう意味」以外のものを人格に与えるのであれば,結局のところ,常に関係を
再生産する主体として人格を規定するしかありませんが,神山さんの用語法で
はそうなっていません。

>人格関係そのものは、交換関係に疎外され、疎外されることで、生産から分離した人
>格関係が成立している、と(今井さんと全く同じか分りませんが)私も考えます。

 神山さんの場合には,「人格関係そのものは、交換関係に疎外され」るとい
うことはあり得ません。何故ならば,「交換関係」──但し相互的承認によっ
て形成されている限りでの関係[*1]──そのものによってしか「人格関係」が
形成され得ないからです。神山さんの用語法では,「交換関係に疎外され」て
いるのは,「人格関係」以外の何か別の関係でしょう。

[*1]結局のところ,交換過程における関係形成は相互的
承認──既に述べたように俺の場合にはこれが既に認識
的な振る舞いだけではなく現実的な振る舞いでもあるの
ですが──に留まらず,実際に商品を譲渡し合うという
ことによって現実化されるわけです。

>承認能力の潜在的持主たちは、承認の関係を生産では、つくれま
>せん(これを人格があるけどないといってもいいかもしれません)。

 神山さんの場合には,生産では人格は「あるけどない」のではなく,“ない
からない”──全くない──わけです。何故ならば,神山さんがおっしゃるよ
うに,「承認の関係を生産では、つくれ」ない──そしてもし「承認の関係を
〔……〕つくれ」ないならば,そもそも人格は発生しない──からです。神山
さんの用語法では,生産における(労働による)人格の否定的な形成はすっぽ
りと抜け落ちてしまい,人格は交換過程での相互的承認の結果になってしまい
ます。
 これに対して,俺の場合には,生産では類的本質としての人格が発生する
が,但し否定的に──自己からの類の疎外として──発生するわけです。こう
して,生産では人格は「あるけどない」ということになります(なお,蛇足で
すが,既に繰り返し述べているように,俺の場合には,交換でもまた人格は
──商品所持者であろうと私的所有者つまり法的人格であろうとも,いずれに
せよ──「あるけどない」ということになります)。

>ただし、労働から疎外されており、労働も、人格関係を労働において形成しますが(協
>業)、物象的関係においては、主体ではなく、ただのモノです。

 神山さんの場合には,少なくとも協業の発生時点では,「労働」は「人格関
係を労働において形成し」ません。何故ならば,協業の発生時点では,相互的
承認などあり得ないからです。神山さんの用語法では,「労働において形成」
されているのは「人格関係」以外の何か別の関係でしょう。

>非人格、つまり物象が関係形
>成の能動性になります。

 この表現においても,神山さんの場合には,「非人格」というのは“非=法
的人格”のことを指すはずです。何故ならば,神山さんの用語法では,人格は
法的人格以外にはあり得ないからです。ところが,この法的人格は(神山さん
の用語法でも俺の用語法でも)物象の存立を前提するはずです。と言うのも,
法的人格は物象の人格化であるからです。
 神山さんの用語法では,結局のところ,用語上,“人格先にありき”ではな
く,“物象先にありき”になる(人格の物象化という用語そのものを放棄す
る)はずですから,──物象の人格化の方は“私的所有者(法的人格)であ
る”ということでよく解るのですが──,「非人格」としての物象の方は一体
なにを指しているのか,循環論法になってしまってよく解りません[*1]。

[*1]神山さんの用語法では,物象は非[人格]である
が,肝心の“人格”は法的人格でしかあり得ず,従って
また物象の人格化しかあり得ないわけですから,物象は
非[物象の人格化]であるということになり,従ってま
た物象は非{非[物象の人格化]の人格化}であるとい
うことになり,結局のところ堂々巡りになってしまうわ
けです。物象=非[人格]=非[非物象]。この循環論
法から脱出するためには,やはり物象によって定義され
ていない人格,自己根拠としての人格,労働によって措
定される人格を想定するしかないだろうと考えます。そ
して,俺の考えでは,これこそが物象化するべき人格の
問題なのです。
 なお,誤解がないように強調しておきますが,社会的
関係とは全く別に“人格なるもの”が実存しているなど
ということを主張するつもりは,俺には全くありませ
ん。(a)現代的社会では,人格は類的本質でありなが
ら,しかし物象の人格化(社会的諸関係のアンサンブ
ル)としてしか実存し得ません。だからこそ,類的本質
と社会的諸関係のアンサンブルとは(全く分離してはい
るが)“一つのもの”であるわけです。だからこそま
た,人格は自己矛盾であるわけです。(b)物象の人格化
を全く別にしても,そもそも,現代的社会では,諸人格
の関係は諸物象の関係としてしか実存し得ません(人格
の物象化)。寧ろ,物象化しているということこそは,
人格が類的本質であるということを指し示しています。

 もし循環論法を避けるならば,こうなります。──「非人格」と言うからに
は,それは“人格ではないもの”であり,従って人格の発生を前提しているは
ずです[*1]。もしそもそも“人格であるもの”が定義されていなければ,“人
格ではないもの”も定義されません。ところが,神山さんの場合には,人格は
交換過程の相互的承認によって発生する法的人格としてしか──従って物象の
人格化としてしか──定義されず,それ故にまた物象を前提にしてしか定義さ
れません。逆に言うと,もし循環論法でないのであれば,物象は人格の発生を
前提にしては定義されないということになります。ですから,神山さんの用語
法では,「関係形成の能動性にな」っているのは「非人格」以外の何か別のも
のでしょう。このように,神山さんの場合には,「非人格」という用語法も放
棄した方がいいように思われます。たとえ仮にそれをなんと呼ぼうと構わない
としても,神山さんの用語法では,人格が物象化を前提にしてしか発生し得な
い以上,いずれにせよ「非人格」以外の別の用語を当てるべきではないでしょ
うか。

[*1]だからこそ,俺は物象のことを“非人格”と呼ぶけ
れども,人格のことを“非物象”と呼ばないのです。俺
の用語法では,なるほど物象の人格化としての人格は
“非物象”ですが,物象化するべき人格は“非物象”で
はありません。物象は非人格として人格に即して定義さ
れるべきであるが,人格は物象からは独立的に定義され
るべきだと,俺は思います。俺の用語法では,未来社会
では,人格の物象化──従って固有な意味での物象──
も物象の人格化も消えてなくなりますが,人格が消えて
なくなるわけではありません。

 以上のように,神山さんの理論は神山さんの用語法の変更を要請するよう
に,俺には思われます。あるいは,逆に言うと,神山さんの理論では,人格
は相互的承認に先行して発生するように,俺には思われます。これこそが神
山さんの理論内容に相応しい人格概念であるように,俺には思われます。
 なお,前出の諸引用においては神山さんがご自身の用語法を用いていると,
俺は最初に仮定しました。ひょっとすると,そもそもこの仮定が間違っている
のかもしれません。ひょっとすると,神山さんは前出の諸引用において,俺に
も解るようにご自身の理論を展開するために,今井の用語法を用いていたのか
もしれません。しかし,それならばそれで,人格という用語に代わるどのよう
な用語をどの部分で神山さんご自身が用いるのかということを明確にしていた
だければ幸いです(と言うのも,俺の用語法は神山さんの用語法と明らかに異
なるからです)。そうでなければ,神山さんの主張の中でどこが“人格”に関
説した部分でどこが“人格以外の主体”に関説した部分であるのかよく解ら
ず,こちらの頭が混乱してしまって,神山さんの主張を理解するのが困難にな
ってしまいます。
 また,ひょっとすると,神山さんが用いている用語の意味内容についての俺
の解釈が根本的に間違っているのかもしれません。神山さんの用語法では,
“人格=物象の人格化=法的人格”(このように俺は神山さんの用語法を解釈
していました)ではないのかもしれません。しかし,それならばそれで,──
“[ism-study.50] Re: Questions About "Person"”(1999/08/21 18:28)の
諸質問にお答えいただくような形であってもそうでなくても構いませんから
──,やはりご自身の用語法を明確にしていただけると幸いです。
 ところで,神山さんは次のように述べています。──

>人格という言葉を、その時
>々の文脈で緩やかな使い方をしてました

従って,ひょっとすると,神山さんはここでもやはりまた人格という用語につ
いて「緩やかな使い方」をしているのかもしれません。しかし,それならばそ
れで,何故に神山さんはここでも「緩やかな使い方」をしてしまうのでしょう
か? 類的本質と法的人格という正反対のものが同一的であるという現実的根
拠をもつような,従ってその問題を認識主観が正しく取り扱おうとすると「緩
やかな使い方」をせざるを得ないような,そのような理論的問題だからなので
はないでしょうか?
 それでは,次に,用語が問題を制約するという点に移ります。とは言って
も,俺と神山さんとの間で理論が根本的に違うということはありそうにないか
ら,ここでは論争のために,細かい対立点を浮かび上がらせます。

>自由な法的人格と物象との矛盾
>が問題です。

 先ず,ここでも,神山さんの場合にも俺の場合にも,法的人格とは相互的承
認によって措定された私的所有者のことを指しているという用語上の同一性を
確認しておきます。その上で,両者の間での用語法の違いが理論内容の違いを
齎すであろうということを論じます。──(a)俺の場合には,法的人格と物象
との矛盾は人格と物象との矛盾の一要素です(そして,以下に述べるように,
人格と物象との矛盾は人格の自己矛盾であり,また人格の自己矛盾は労働の自
己矛盾です)。既に繰り返し述べているように,俺の考えでは,物象の人格化
は人格の物象化を前提にし,従って人格a→物象→人格bという発生的関連が成
立します。ここで,人格aは類的本質であり,人格bはペルソナ(あるいは社会
的関係のアンサンブル)です。細かく言うと,次のような構造が成立すると思
います。

人格a(類的本質)−矛盾1→物象−矛盾2→人格b(ペルソナ)
└────────────┬─────────────┘
        人格の物象化と物象の人格化との矛盾

すなわち,人格と物象との矛盾と言っても,それは人格aと人格の物象化との
矛盾(矛盾1)と,物象と物象の人格化との矛盾(矛盾2)とに分かれ,その全
体を直接的に統一しているのが物象の人格化と人格の物象化との矛盾であると
考える次第です[*1]。で,神山さんが「自由な法的人格と物象との矛盾」と述
べているのは矛盾2のことだと解釈します。更にまた,神山さんは,人格の物
象化というフレームワークについてはこれを捨象するはずですから,神山さん
の場合には人格と物象との矛盾は「自由な法的人格と物象との矛盾」以外には
ないのだと解釈します。すなわち,神山さんの場合には,人格論のフレームワ
ークからは矛盾1は捨象される(他のフレームワークからは捨象されないので
しょうが)と,俺は想定します[*2]。

[*1]マルクスが何を想定して「人格の物象化と物象の人
格化との対立」に言及しているのか,俺には今一つよく
解りません。だから,俺のフレームワークがマルクスの
それと同じであると主張するつもりは俺には全くありま
せん。もしかしたら全く別ものであるのかもしれませ
ん。しかも,物象は人格の物象化の結果であり,人格b
は物象の人格化の結果である以上,マルクスが言及して
いる「人格の物象化と物象の人格化との対立」は矛盾2
だけを指しているかのようにも見えます。しかし,マル
クスが少なくとも神山さんがおっしゃる「自由な法的人
格と物象との矛盾」だけを想定しているのでは決してな
いということは確実だと思います。そうでなければ,流
通手段で恐慌の可能性について述べるところで,「使用
価値と価値との対立,私的労働が同時に直接的に社会的
な労働として表示されなければならないという対立,特
殊的な具体的労働が同時にただ抽象的・一般的労働とし
てのみ妥当するという対立」(KI (2. Auflage), 
S.138)と並んで「商品に内在的な対立」(ebenda)と
してこのタームを用いたりしないでしょう。ここでは,
俺は(マルクスと同じであるのか不明ですが)“物象化
の過程そのもの(矛盾1)と人格化の過程そのもの(矛
盾2)とが矛盾するのだ”という意味で,このタームを
用いておきます。

[*2]ここで,“矛盾1は労働の矛盾であって,人格と物
象との矛盾ではない──あるいは人格と物象との矛盾と
言う必要はない──のではないか”と考える人もいるか
もしれません。(a)先ず,「人格と物象との矛盾ではな
い」という疑問に対する回答。違います。狭義では,労
働の自己矛盾はあくまでも労働という行為(Tun)その
ものの矛盾のことであるのに対して,矛盾1はあくまで
も労働の結果,労働の産物として措定された主体の矛盾
です。広義では,矛盾1も矛盾2も矛盾1と矛盾2との矛盾
も総て労働の自己矛盾です。(b)次に,「人格と物象と
の矛盾と言う必要はない」という疑問に対する回答。必
要です。と言うのも,本文中に,俺が述べているよう
に,矛盾1は矛盾2とペアで初めて変革主体形成論の基礎
づけが行われ得ると,俺は考えているからです。矛盾1
は優れて主体の矛盾であるわけです。労働の自己矛盾に
留まっていては,これを意識する変革主体の形成は問題
外になってしまいます。労働は労働の自己矛盾を意識す
る主体(人格)をも措定するのですが,この主体は労働
の自己矛盾を自己自身の自己矛盾として把握すると,俺
は考えるわけです。

 (a)そこで問題になるのが生産過程の問題です。俺の考えでは,物象の人格
化としての資本家について言うと,人格化は流通過程で発生するが,生産過程
において発展します。俺の考えでは,直接的生産過程でこそ人格と物象との矛
盾は事実的に進展します。神山さんが「自由な法的人格と物象との矛盾」とい
う用語を用いる場合には,生産過程内での資本による法的人格(自由・平等な
私的所有者)の否定は含まれるのでしょう[*1]が,生産過程でのこの矛盾は含
まれないはずです。例えば,神山さんの場合には,私的人格としての資本家と
物象的に社会的な生産との矛盾は直接的生産過程で進行する[*2]限りでは,
「自由な法的人格と物象との矛盾」というフレームワークには含まれないはず
です。また,例えば,神山さんの場合には,生産過程の内部で進行する全面的
に発達した諸個人の可能性も「自由な法的人格と物象との矛盾」というフレー
ムワークには含まれないはずです。また,例えば,神山さんの場合には,生産
過程の内部で発生する類的本質の自己の類的能力の発現とそれの資本の社会的
生産力への疎外との矛盾も「自由な法的人格と物象との矛盾」というフレーム
ワークには含まれないはずです[*3]。──以上の問題はいずれもそれ自体とし
ては法的人格(私的所有者)の否定という問題ではなく,類的本質の否定的形
成という問題だと考える次第です。

[*1]因みに,これは蛇足ですが,俺の上記のフレームワ
ークでは,直接的生産過程での自由・平等な法的人格の
否定は,単なる矛盾2──物象と物象の人格化(法的人
格を含む)との矛盾──ではありません。そうではな
く,それは,物象の人格化(更には法的人格の形成)を
前提にして,その法的人格が今度は人格の物象化におい
て物象化するべき人格として再設定された事態であると
考えます。なんかちょっと解りにくいかもしれません
が,上記の“人格a→物象→人格b”というフレームワー
クは発生的関連に即しているのに対して,今度は発生的
関連が相互的関連に展開して,人格bが人格aとして設定
された事態であると考えるわけです。すなわち,──

人格a→物象→人格b┐
└────────┘

こういうわけで,直接的生産過程での自由・平等な法的
人格の否定は,俺のフレームワークでは,矛盾1(人格
の物象化)の場面で生じるような,矛盾1と矛盾2(物象
の人格化)との矛盾であるわけです。

[*2]これは,要するに,直接的生産過程の内部で進行す
る限りでの管理労働者への管理労働の委譲の問題のこと
です。確かに資本にとって資本家は私的所有者として必
要であるわけですが,しかし生産過程で生じているこの
事態は,差し当たっては,私的所有者としての資本家が
資本と矛盾している──つまり資本家が私的所有者とい
う資格で資本と矛盾している──のでは決してなく,
「意志と意識とが与えられた資本」(これが俺にとって
は資本の人格化の規定です)としての資本家が資本と矛
盾している──つまり資本家が「意志と意識とが与えら
れた資本」(資本の人格化)という資格で資本と矛盾し
ていると,俺は考えます。もちろん,後には,この矛盾
は資本家支配の正当化危機として──従ってまた法的人
格としての(正当化形態としての,私的所有者として
の)資本家と資本との矛盾として──当事者意識に対し
て暴露され,またこれを媒介にして社会意識に対して暴
露されます。資本家について「自由な法的人格と物象と
の矛盾」という用語法で神山さんが想定しているのはこ
ちらの方の事態であると,俺は解釈します。
 これは確かに資本という物象と,「意志と意識とが与
えられた資本」としての資本家(俺の用語法ではこれが
既に資本の人格化であるということにご注意ください)
との矛盾ではありますが,資本という物象と法的人格
(私的所有者)との矛盾ではないと俺は考えます。

[*3]もちろん,恐らく神山さんの理論では,これらの問
題は別のフレームワークには位置付けられるはずです。
そしてまた,恐らくはそのフレームワークは物象と法的
人格との矛盾というフレームワークの基礎をなすのでし
ょう。しかしまた,神山さんの理論では,前者のフレー
ムワークと後者のフレームワークとはあくまでも違った
ものに留まり続けなければなりません。神山さんの場合
には,生産過程での矛盾が正当化危機にまで行き着いた
時に初めて,物象と法的人格との矛盾というフレームワ
ークにこの問題が収まるようになるのでしょう。

 (b)既に何度も述べているように,俺の場合には,──

“人格a”−人格の物象化→“物象”−物象の人格化→“人格b”

という発生的関連が成立し,しかも人格aと人格bとは正反対のもの(関係を措
定するものと関係によって措定されたもの)でありながら人格として同一的で
あるわけです。それ故に,俺の場合には,変革主体論としては,人格と物象と
の矛盾は人格そのものの自己矛盾として定式化されます(神山さんは,これを
自己矛盾として定式化するとしても,用語上,人格以外の別の主体の自己矛盾
として定式化するはずです)。こうして,俺の場合には,変革主体論において
は,法的人格は“自己矛盾を意識する主体”という位置が与えられます(神山
さんの場合には,法的人格は“自己矛盾ではない別の矛盾──別の主体の自己
矛盾──を意識する主体”という位置が与えられるはずです)[*1]。

[*2]誤解がないように繰り返して強調しておきますが,
俺の用語法では,類的本質としての(物象化するべき人
格としての)人格は労働によって措定される以上,人格
の自己矛盾とは実は労働の自己矛盾のことであるのに過
ぎません。矛盾の発生源は労働であって人格ではありま
せん。そしてまた,労働の自己矛盾そのものは直接的に
は資本の自己矛盾として現れるわけです。しかし,変革
主体論において法的人格が決定的に重要であるのはこの
労働の自己矛盾を意識する主体であるからだと,俺は考
えます。もちろん,資本主義的生産の中で変革主体が変
革能力を客体的に身につけていくということは当然の前
提ですが,その延長線上に,変革意識を主体的にもつよ
うにならないと,社会変革は起こりません。正にこの点
に,人格の自己矛盾という定式化の実践的意義があると
俺は考えます。

[*1]なんか「自己矛盾」なんて言うと,えらく小難しい
屁理屈を捏ねているように思う方もいらっしゃるかもし
れません。しかし,それ自身はそんなに難しいことでは
ないのです(難しいのはそこに至る過程の方です)。例
えば,サラリーマンが“今日は会社にいきたくないな
ぁ”と考えると仮定します。会社にいきたくないのは要
するに会社が悪いからなのです。そこで,(a)このサラ
リーマンは先ず“会社が悪いのは仕方がないことなのだ
(人間の業のせいなのだ)”と考えるかもしれません。
しかし,これではそもそも社会的な矛盾が自然に解消さ
れてしまっており,このサラリーマンはまだ自己意識し
ていません。ここではおよそ変革実践というものは発生
しません。(b)このサラリーマンは次に“会社が悪いの
は悪徳資本家とか無能経営者とかが悪いからなのだ”と
考えるかもしれません。しかし,これでは──確かに矛
盾が社会的な矛盾として把握されてはいますが──,シ
ステム的な矛盾が他の個性(悪徳資本家とか無能経営者
とか)に解消されてしまっており,このサラリーマンは
まだ自己矛盾を意識していません。ここでは,変革実践
は(乱暴に言うと)特定の悪徳資本家・無能経営者をぶ
ち殺せばいいということになります。(c)このサラリー
マンは更に“会社が悪いのはシステムが悪いからなの
だ”と考えるかもしれません。しかし,これでは──確
かに矛盾がシステム的な矛盾として把握されてはいます
が──,自己が(自己に疎遠なものとして)形成したシ
ステムの矛盾が自己に疎遠なままで(自己が形成したと
いうことを抜きにして)把握されてしまっており,この
サラリーマンはまだ自己矛盾を意識していません。ここ
では,変革実践は(乱暴に言うと)悪徳資本家・無能経
営者どもを次から次へと皆殺しにして,システムをぶち
壊せばいいということになります。(d)このサラリーマ
ンは遂にシステムを形成しているのは自分自身であるの
だということを見抜くようになります(その過程につい
ては,ここではこれを省略します)。他ならない自分が
形成したシステムが自分を搾取していたのです。自分は
システムを形成するもの(人格a)でありながら,自己
とは疎遠なシステムによって形成されたもの(人格b)
であったのです。自分自身が矛盾した実存だったので
す。しかしまた,他ならない自分が“自分ではないシス
テム”を形成している以上,この“自分ではないシステ
ム”はまた他ならない自分によって変革されるはずであ
り,また自分によってしか変革されないはずです。ここ
では,変革実践はシステム変革としての自己変革という
定式を受け取ります。──てなわけで,一人のサラリー
マンに的を絞った(階級的観点を一切捨象した)えらく
単純な例ですが,“自分であって(人格a)自分ではな
い(人格b)”という自己矛盾を意識する主体について俺
が言及する時には,まぁ,取り敢えず,こんなイメージ
をお持ちください。

>私的諸労働とは、生産共同体がない、生産の共同意思的媒介がないということ、という
>こと、生産において人格性が否定されていること、です。

 神山さんの場合にも,「生産において人格性が否定されている」のでしょう
が,それは疎外された労働による人格の自己否定的形成ではなく,あくまでも
交換過程で発生した自由・平等な私的所有者の──法的人格の──否定だとい
うことになるはずです。神山さんの用語法では,「人格性」は交換過程でしか
形成されないのだから,生産過程でのその否定も,交換過程で形成されたもの
が生産過程で否定されるということになるはずです。だから,こと人格論に関
する限りでは(他の議論に関してはそうではないのでしょうが)生産過程と交
換過程とは全く分離したまま,交換過程で発生した人格性が交換過程から全く
切り離された生産過程で単純に否定されるということを,「生産において人格
性が否定されていること」という表現は意味しているはずです。
 俺の場合にも,生産においては正に人格が否定されているわけです。何故な
らば,生産において類的本質としての人格が形成されるわけですが,但し自己
からの類の疎外として否定的に形成されているからです。もちろん,神山さん
と同様に俺も,生産過程での法的人格の──抽象的自由・抽象的平等・私的所
有の──否定を強調します。しかし,俺の場合には,資本主義的生産での法的
人格(交換過程で形成された)の否定──抽象的自由・形式的平等・私的所有
の否定──は,人格そのものの否定的形成の必然的な結果であるだけではな
く,切っても切り離せない“一つのもの”です。
 最後にもう一度だけ確認しておきます。既に述べているように,俺にとって
は類的本質,物象の人格化,私的所有者の総てを包括する用語が人格です。そ
れらは別のものでは決してなく,同じ一つのものであり,但し疎外の発生的関
連において(物象化を媒介にして)正反対のものに転倒しているわけです。ま
ぁ,用語それ自体は人格でも格人でもなんでもいいのですが,それらを包括す
る用語がなければなりません。俺にとっては,「人格でも格人でもなんでもい
い」というのが用語法の問題です。これに対して,「それらを包括する用語が
なければなりません」というのは用語法の問題ではなく,理論内容の問題で
す。

2.廣松批判について

>広松に対して、自由な人格性が対象における実在であることが欠落していることを、今
>井さんも批判なさるわけですが、今井説では、人格論が中心で、広松に労働論が不在であ
>ることは、正面きっては展開されておらず、それが分りにくいところなのかなと思います
>。

 第一に,ちょっと細かい点ですが,俺の用語法では「人格性」は「対象にお
ける実在」ではなく,あくまでも「自己における実在」です。「対象にお
ける実在」というのがちょっとよく解りにくいのですが,俺の場合には対象的
に振る舞っている限りでの自己は人格ではありません。物象の人格化は,いか
に物象の人格化であろうとも,それでもやはり自己の行為を行う主体です。
 第二に,これはもう俺が廣松,廣松とその名を連呼しているのが悪いのです
が,俺は哲学者ではありませんから,俺には廣松さんという個性を特別に批判
しようという気は──全くないわけではないのですが──あまりありません。
俺は“[ism-study.15] Re^2: On the "Person" etc.”(1999/08/02 11:57)
の中で次のように述べています。──

>だから,廣松さんを批判しよう
>というのは廣松さんのことがにくくてにくくて溜まらないからでは決してな
>く,今日の社会変革理論に一石を投じたいからなのです。闇雲革命論の方々の
>理論構造は大体において廣松さんと同じです。まぁ,そんなかでマルクスのテ
>キストに即して割と緻密な理論を構築しているのが廣松さんなので,ここでは
>廣松さんを引き合いに出したわけです。

俺が廣松さんを批判しているのはあくまでも“資本主義には出口がない,資本
主義は完結している”と考えている人たちの最も優れた──つまり批判しやす
い──例だからです。理論に即して出口がないということは,実践に即しては
──これもこれで主観主義と客観主義とに分裂するのですが──主に主観主義
(「闇雲革命論」)を齎すと,俺は考えています。そして,資本主義には出口
がないという理論の背景には──廣松さんについて述べたようにこれもこれで
相互的に転回するのですが──主に単純商品流通のイメージがあると,俺は考
えています[*1]。

[*1]ですから,これまでの俺の投稿は,発生的関連につ
いて考察している限りでは,総て廣松さんではなく,宇
野さんを批判しているのだと考えていただいても構いま
せん。出口がないということでは両者は全く同じです。
労働論が全くないということでも同じだからです。但
し,宇野さんの場合には交換過程論さえなく,人格論さ
えないから,またこれに対して『資本論』の第2篇以降
の部分は取り敢えずあるわけだから,廣松さんに対する
のとは別の切り口が必要になります。もっと解りやすく
言うと,宇野さんの理論は廣松さんの理論よりもずっと
複雑ですから,学派内でも目茶苦茶に分裂しており,全
体像の批判は非常に困難です。いずれにせよ,悪循環の
構造の中に悪循環の突破点もあるのだという点では,ま
ぁ,同じです。

 なお,“お前は相手の土俵で闘うことしかできんのか”とお考えになる方も
いらっしゃるかもしれません。もちろん,そうではありません。相手の土俵そ
のものの攻撃によって相手の土俵を崩すということが眼目なのです。単純商品
流通の世界は疎外された世界なのだから,疎外の構造を通じて,この悪循環の
真っ只中に発生点を指し示しているということを論証したいわけです。つま
り,関係主義者の土俵が関係主義者の土俵ではないのだということを論証した
いわけです。
 第三に,何故に「今井説では、人格論が中心で、広松に労働論が不在である
ことは、正面きっては展開されて」いないのかという点について述べます。先
ず,廣松さんには労働論どころか,基本的には『資本論』第1巻2篇以降が欠如
しているということを確認しておきます。“[ism-study.21] Re: On Labor 
Power, HIROMATU etc.”(1999/08/03 12:51)の中で俺は次のように述べてい
ます。──

>廣松さん
>は,一方では,資本主義的生産を捨象して単純な商品流通しか考察しないか
>ら,資本主義的生産を完結した世界として把握してしまい,しかしこれとは全
>く逆に,他方では,資本主義的生産(階級社会)のイメージでしか単純な商品
>流通を考察しないから,単純商品流通の現象を総て仮象として把握してしまう
>のです。
(中略)
>廣松さんは,一方では資本主義
>的生産を捨象し,しかし今度は単純な商品流通を考察する時には,他方では単
>純商品流通を捨象してしまうのです。だから,廣松さんは殆ど専ら商品論・貨
>幣論しか論じていないのにも拘わらず,当の商品論・貨幣論を正しく掴まえる
>ことができないのです。こうして,廣松さんの脳髄の中では資本主義的生産が
>単純商品流通に,そして逆に単純商品流通が資本主義的生産に相互的に転回し
>てしまっているのだと思います。

ここでは廣松さんに対する直接的な批判点として,「資本主義的生産を捨象
し」ているということではなく,「商品論・貨幣論を正しく掴まえることがで
きない」ということを,俺は挙げたつもりです。これと同様な表現を採用する
と,廣松さんに対する直接的批判点として,「労働論が不在である」というこ
とではなく,物象の人格化論「を正しく掴まえることができない」ということ
を,俺は挙げるべきでしょう。
 次に,労働論ではなく,人格論で廣松さんと争わなければならない理由を申
し上げます。回答は二つあります。第一の回答は極めて簡単です。──正に労
働論がないからです。差し当たっては,人格論で争うしかないからなのです。
労働論がない人に対して労働論を対置するためには,その前に人格論そのもの
において労働論の必要性を主張することができなければならないと考えている
わけです。“[ism-study.37] Re^4: A Confirmation About Person”
(1999/08/06 9:52)の中で俺は次のように述べています。──

>いくら俺が“物象化するべき人格
>は類的本質だ”と言ったところで,単純な商品流通の枠内にある限りでは,た
>だの断言であるのに過ぎません。しかし,単純商品流通は,転倒構造を発生的
>関連において提示するということによって,解決への道程を示すわけです。

繰り返しになりますが,要するに,「労働論が不在である」ような人にいきな
り労働論をぶつけても,それは単なる断言であって,全く無意味だと思うので
す。──“労働論? そんなのいらないよ。抽象的労働も仮象,労働過程も仮
象,労働する人格も仮象なんだから。流通過程の悪循環(商品論・貨幣論)さ
え知っておけば,後はマル経だろうと近経だろうと大して変わりはないよ。必
要なのはただ一つ,仮象の世界の構造を知るということだけだよ”──廣松さ
んがこう主張するかどうかは,廣松さんは死んじゃったのでよく解りません
が,廣松一派の方々がこう主張しても不思議はないでしょう。もちろん俺が人
格論を明確にしたいのは廣松批判のための手段になるからだけではなく,その
明確化それ自体が現代社会の解明のために役立つと考えているからなので
す[*1]が,しかし,こと廣松さんとの関連について言及する限りでは,俺が人
格論の枠内で相手の土俵において相手の土俵を突き崩し,これによって,これ
を通じて,これを媒介にして,「労働論」の必要性を主張するということが必
要であると考えているからなのです[*2]。そして,これは可能であると俺は考
えています。俺の考えでは,単純商品流通は相互的関連の悪循環の中で完結し
ているものとして現れますが,しかしそもそも疎外された世界が完結している
はずがないのであって,単純商品流通の枠内でこの世界の非完結性を指し示す
運動もまた現れているはずだと考えています[*3]。

[*1]以下では,またまた話がぶっ飛びますから,お気軽
にお読みください。──実は,完結した単純商品流通の
世界の非完結性こそは「貨幣の資本への転化」の問題な
のです。(a)第一に,現行版『資本論』の第1巻2篇「貨
幣の資本」への転化については,認識主観の認識手続き
に関する限りでは,単純商品の概念的把握と金儲けとい
う表象との矛盾という見田さんの古典的な見解がありま
す。認識主観の認識手続きに関する限りでは,俺はこれ
よりも優れた見解を知りません。しかし,見田さんに決
定的に欠如しているのは,何故に認識主観はこのような
手続きをふまえることができるのかという問題,つまり
認識手続きの現実的根拠の問題です(そこで,次の(b)
で述べるような問題については見田さんの理論は全く無
力です)。俺自身,まだきちんと整理することができて
いないのですが,認識主観が現行版『資本論』のような
手続きを経ることができるのは,単純商品流通がその完
結性の真っ只中で疎外の発生的関連を通じて自己の非完
結性をも現実的に表示しているからだと思うのです。
(b)第二に,『資本論』諸草稿と『資本論』との間で
の,一見して誰にでも解るような叙述の相違がありま
す。そこにバックハウスらは,論理的方法から歴史的方
法へのマルクスの方法的俗流化の一例を見て取るので
す。そもそも論理的−歴史的というのがナンセンスな対
立項──マルクス自身はそんな対立項を用いていない!
──なのですが,マルクス批判をしようとしているバッ
クハウスらにそんなことを言っても全く無意味です。で
すから,俺は,単純商品流通に即してその非完結性(商
品・貨幣の世界から資本の世界への移行)を論証しなけ
ればならないわけです。

[*2]神山さんの場合には,人格は労働によって措定され
るのではなく,交換過程での相互的承認によって措定さ
れるのですから,労働論と人格論との対置という図式に
なるのは必然的だと,俺は考えます。しかしながら,そ
れならばそれで,何故に人格論に対して労働論を対置す
るということが可能なのでしょうか。

[*3]以上の手続きについては,“Re^4: A 
Confirmation About Person [PS][Resent]”の中で俺は
簡単に述べたつもりですから,そちらの方をご覧くださ
い。

 さて,その際に決定的なポイントとなるのは,俺の考えでは,類的本質とペ
ルソナあるいはアンサンブルとは──正反対なものですが──別なものでは決
してなく,発生的関連において自己疎外的に分裂した“一つの同じもの”なの
だということなのです。ペルソナと類的本質とが“一つのもの”なのだという
ことなのです。だから,俺の場合には,人格でも格人でもペペンでもピピンで
もパパンでもなんと呼んでも構いませんが,とにかくペルソナと類的本質とを
統一的に表現する“用語”が絶対に必要であるわけです。そうである以上,そ
れは相互的承認に先行して発生し,相互的承認において自己を実証する主体で
なければなりません。
 ここで,第二の回答への移行が生じています。第二の回答はやや特殊的で
す。──俺にとっては,労働論と人格論とは切っても切り離せないからで
す[*1]。俺にとっては廣松さんの(あるいは,廣松さんの人格論ではなくても
いいのですが,常識的な人格論)人格論を批判するということが直接的に労働
論を復権させるということを意味しているわけなのです。既に述べているよう
に,俺にとっては人格論は類的本質論から出発するわけなのです。第一の回答
で俺が人格論と述べていたのは物象の人格化論のことです。恐らく神山さん
も,「労働論」と区別して「人格論」と言っている時に想定しているのは恐ら
く人格化論だと思います。

[*1]神山さんの場合には,労働論と人格論とは全く分離
しています。何故ならば,神山さんの場合には,人格は
交換過程で形成されるからです。この点が俺と神山さん
との間で最も対立する点だと思います。

[*2]その際に,誤解がないように強調しておきますが,
固有の人格論(労働から切り離されて独自な運動を行う
限りでの人格の理論,要するに物象の人格化論)と固有
の労働論とをごちゃ混ぜにするつもりは俺には毛頭あり
ません。俺は山本広太郎さんと,類的本質=人格を強調
するという点では同じなのですが,固有の人格論を取り
扱うのかどうかという点では鋭く対立します。山本さん
には結局のところ人格化論がないわけです。

3.その他

>人格化は、主体化という意味でも使われています。人格の物象
>化と物象の人格化も、主体の客体化、客体の主体化、生産と消費の循環構造、という意味
>で使われている個所もあったはずです

 ここがちょっと神山さんが何を主張しようとしているのか俺の頭脳には解り
にくいところなので,もう少し説明をいただければ幸いです。「生産と消費の
循環構造」という箇所から見ると,どうも物象化・人格化という用語法につい
てそれが超歴史的に(どの時代にも発生するものとして)妥当するような追加
的な用語法を提示していらっしゃるかのように見えます(もし誤解であれば,
ご指摘ください)。そこで,一応,俺自身の物象化・人格化の用語法を再提示
しておきます。
 俺の理解では,主体と客体との関連という観点で言うと,先ず,物象化
(Versachlichung)というのは,主体の客体化(Objektivierung)なのだけれ
ども,単に主体が客体を措定するという意味ではなく,正に疎外された仕方で
主体が客体を措定する──従って現実的には客体の方が転倒的に主体化する
──ということです。これこそは,俺が一連の投稿で使用していた「物象化」
のことです。他の意味では,少なくとも俺の方は物象化という用語を使用して
いません。
 次に,人格化というのは,“[ism-study.48] Questions About "Person" 
[PS]”(1999/08/19 20:13)の中で述べているように,俺の考えでは,それが
物象化(=“生産手段・生活手段の人格化”)を意味していようと(『資本
論』で言われているような)人格化を意味していようとも[*1],いずれにせ
よ,漠然と主体が形成されるということではなく,正に疎外された形態で主体
が形成されるということです。

[*1]この注内で,“生産手段・生活手段の人格化”とい
う表現における人格化を人格化a,“物象の人格化”と
いう表現における人格化を人格化bと呼びます。商品生
産では諸人格の関係が諸物象の関係に転倒します。これ
が物象化です。その後で,今度は諸物象の関係が諸人格
の関係に転倒します。これが人格化bです。これに対し
て,人格化aは物象化と人格化bとの統一という観点から
──主体ならざるものが主体になるという点では物象化
と人格化bとは統一されています──物象化の方に──
しかも資本という物象を成立させる物象化の方に──着
目した用語法です。
 なお,ドイツ語では,人格化には擬人法という意味も
あります。これは,純粋に文学的な用法である限りで
は,疎外とは無関係です。但し,この擬人法は,物象の
能動性を表現する(ムッシュー・カピタル,マダム・
ラ・テルなど)限りでは,疎外の表現──但し物象の人
格化(人格化b)ではなく,物象化としての主体化(人
格化a)──であり得るわけです。

 このように,俺の用語法では,物象化にせよ人格化にせよ,それはただ疎外
された世界についてのみ用いられています。“疎外された”というのが決定的
です。俺の用語法では,共産主義では物象化も人格化もあり得ません。もし神
山さんが他の用語法を使う(あるいは提示する)のであれば,その都度,明確
に定義していただけると,非常にありがたく思います。