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 浅川さん,ISM研究会の皆さん,今井です。浅川さん,コメントありがとう
ございます。取り敢えず,質問にだけお答えします。
 第一の質問について。

>このシェーマを今井さんの説に即してより詳しく展開すると、次のようになるのでは
>ないでしょうか?
>
>“人格a”−人格の物象化
>→“物象”−物象の人格化
>{物象-“人格b1”(所持者)の措提
>→ “人格b1”−相互承認}
>→“人格b2”(所有者)
>(「シェーマA’」と呼ぶことにします。)

 全く異論はありません。と言うか,このシェーマは,俺が
“[ism-study.63] Re^3: Arbeit und Person”(1999年09月16日 14:20)で定
立したシェーマ,すなわち,──

>┌  類的本質(=人格)
>│    |
>人  物象化
>格    ↓
>‖  (物象)
>一    |
>つ  人格化
>の    ↓
>も  商品所持者(=人格)
>の    |
>│  承認
>│    ↓
>└  私的所有者(=人格)

そのものではないでしょうか?

>物象の人格化とは、実は、2つの段階
>からなっているのではないかと思われます。

 明らかに,私的所有者の発生は人格化の契機です。しかし,人格化が「2つ
の段階」からなっているのでは決してありません。人格化は私的所有者・法的
人格が発生した後も続きます。商品所持者の発生も私的所有者の発生も人格化
の契機であるのと同様に,貨幣所持者の発生も賃金労働者の発生も資本家の発
生も総て人格化の契機だと思います。

>第2段階を経てはじめて、人格化は完了するとことになると思うのですが、今
>井説についてのこのような解釈は正しいのでしょうか?

 これはちょっと微妙です。問題は「完了する」ということの意味合いです。
 「完了」を「完結」という意味にとって大上段に構えて言うと,俺がこれま
でこの投稿で強調してきたことを,「人格化」の「完了」というタームを使っ
て言うと,“資本主義社会の構造上,人格化は決して完了しないんだ”という
ことです。つまり,この定義で言うと,第一段階だろうと第二段階だろうと,
「人格化は完了」しないというわけです。
 とは言っても,浅川さんが言っている「完了」とは,もちろん,そういう意
味ではないでしょう。しかし,それならばそれで,「完了」というのがどうい
う意味であるのか,もう少し明確にしていただければ幸いです。
 これは別に揚げ足を取っているのではありません。と言うのも,既に述べた
ように,私的所有者が発生した後にも,貨幣所持者が登場し,その後で資本家
が登場し,こうして人格化が発展していくからです。何故に私的所有者が発生
した時点で,人格化が「完了する」のか,よく解りません。
 第二の質問について。

>ここで生じる一つの疑問は、〈諸関係のアンサ
>ンブルとしての人格〉と呼べるのは、「シェーマA」では、もちろん“人格b”ですが、
>「シェーマA’」では、b1なのかb2なのか、それともその両方なのかということです。

 両方です。先ず,b1がアンサンブルであるということを強調した箇所につい
て。俺は“[ism-study.15] Re^2: On the "Person" etc.”(1999/08/02 
11:57)の中では,──

>物象化を経た上では,
>人格は即自的にペルソナであり,社会的諸関係のアンサンブルなのです。

同様にまた,──

>単純商品流通で現れる商
>品・貨幣の人格化が既に現実的にアンサンブルなので
>す。

と述べています。また,“[ism-study.20] Re^4: On the "Person" etc .
(1)”(1999/08/03 12:21)の中では,──

>(交換過程でのオープンな場面で
>の)商品所持者=ペルソナ=社会的諸関係のアンサンブル=物象の人格化

と述べています。
 次に,b2がアンサンブルであるということを強調した箇所について。俺は
“[ism-study.52] Re^2: Questions About "Person"”(1999/09/05 22:22)
の中では,──

>俺の場合にも,法的人格は相互的承認によって発生します。だから,──人
>格は「社会的諸関係〔のアンサンブル〕でしかないもの」ではありませんが
>──,“法的”人格は「社会的諸関係〔のアンサンブル〕でしかないもの」で
>す(俺の場合には,法的人格と人格とが区別されているということを想起して
>ください)。

と述べています。また,“[ism-study.53] Re: Versachlichung der 
Personen”(1999/09/06 16:12)の中では,──

>問題は人格≡法的人格なのか──つまり人格≡社会的諸
>関係のアンサンブルなのか──ということだけなので
>す。

と述べています。また,“[ism-study.56] Re: A survey of thecontroversy 
about "Person"”(1999/09/07 08:28)の中では,──

>類的本質と物象の人格化(法
>的人格はこれに含まれます)との──関係を形成する主体と「諸関係の被造
>物」,「社会的諸関係のアンサンブル」との──

と述べています。また,“[ism-study.58] On Hegelian Concept Of Person”
(1999/09/11 04:46)の中では,──

>法的人格(抽象的普遍,ペルソナ,アンサンブル)

と述べています。また,“[ism-study.64] Re^4: Arbeit und Person”
(1999/09/16日 14:24)の中では,──

>「現実的人格」とは,その現実性における類的本質のことであり,従って物
>象の人格化としての人格(法的人格もこれに含まれます)のことです。つま
>り,社会的関係のアンサンブルとしての人格のことです。

と述べています。
 最後に,b1もb2もどちらもアンサンブルであるということを強調した箇所に
ついて。俺は“[ism-study.60] Re: Arbeit und Person”(1999/09/14 
21:25)の中では,──

>俺は「法的人格=関係のアンサンブル」としての人
>格だと考えています(この点では,俺はヘーゲルと全く同じです。違うのは,
>“法的人格≡人格”であるのか,“法的人格=人格の現象形態”であるのかと
>いう点です)。法的人格に限らず,物象の人格化としての人格(俺の場合には
>私的所有者としての抽象的人格だけではなく,生産過程でリアルに現れる資本
>家も労働者も,商品所持者も貨幣所持者も総て物象の人格化であるということ
>にご留意ください)は総て「関係のアンサンブル」だと考えています。

と述べています。また,“[ism-study.47] Questions About "Person"”
(1999/08/18 11:39)の中では,──

>商品所持者は,物象(的諸関係)の
>人格化である以上,相互的承認の前であろうと後であろうと,社会的諸関係の
>アンサンブルです。相互的承認において発生する私的所有者が社会的諸関係の
>アンサンブルであるということは,言うまでもありません。

と述べています。