本文
以下、このメールでは、[ism-study.76]
からの引用には、特に引用元を表記しませ
ん。
今井さん、ご苦労様です。当人が要領を得ない説明をしているために余計な御手数をか
けてしまいました。
> すなわち,浅川さんの用語法では,人間=人格であり,
> “人格”=法的人格・私的所有者であり,「人間」=商品所持者であり,資本
> 主義における人格性=経済的扮装であるということになるようです。
> それでは,この五つの概念の連関について,浅川説を解釈してみましょう。
>
> >この社会での類的本質のあり方は、この2つの契機
> >を分離させた上で媒介的に統一するというあり方なので
> (同上)
>
> という箇所から判断すると,人間と人格と“人格”とはいずれも質料因と形相
> 因との統一であり,但し人間と人格との方は類的本質におけるその本源的統一
> を,そして“人格”の方は商品生産の現実性におけるその「媒介的統一」
> (?[*1])を表現するようです。これに対して,「人間」と資本主義における
> 人格性とは分裂の両項であって,「人間」は「還元」によって専ら質料因を代
> 表し,資本主義における人格性は「形態規定」によって専ら形相因を代表する
> ようです。
>
> [*1]統一形式そのものからみると,明らかにこの統一は
> 直接的統一(二項の無理やりの統一)です。従って,こ
> こで浅川さんが「媒介的」と呼んでいるのは,“統一形
> 式が媒介的なのだ”ということではなく,“統一が一旦
> 分裂し,その後でこの分裂によって/を通じて
> (vermittelst)統一が媒介されている(vermittelt)
> のだ”ということを指していると解釈しておきます。
各用語の意味、相互の関連、また、「媒介的統一」の意味全てご指摘どおりといってい
かと思います。
> 2. 人間の位置付け──人間と人格との間には区別性もあるのではないか
>
> 先ず,人間の位置付け,あるいは人間と人格との同一性・区別性についての
> 疑問です。
正直の話し、この部分(「 2. 人間の位置付け」)でご指摘いただいたことについて
は、充分つめていませんでした。改めて反省してみるに、ほとんど無自覚的だったので
すが、「「類的本質としての人間」(=人格)」がここ(“人格“ツリーにおける議論)
での対象であることが前提されていると、考えていたと思います。「人間=人格」、「人間
は常に人格」という図式も、考察の結論というより、前提の確認であったということで
す。起点が、人格である以上、疎外に陥っても人格性は消えてなくなるわけでなく、物象
(→経済的扮装)として存在しているということを確認しておきたかったわけです。逆
にいえば、議論の対象という限定をはずせば、人格ならざる人間がありうることを認め
ることはできると考えます。
> 既に述べたように,今井説では,類的本質は人間の人間的なあり方,人間の
> 媒介的なあり方,人間の本質的なあり方であって,類的本質≡人間ではありま
> せん(従ってまた人間≡人格ではありません)。類的本質は常に人間ですが,
> 人間が常に類的本質であるとは限りません。今井説では,人間は類的本質に対
> しては質料的であり,これに対して類的本質は人間に対しては形態的です。浅
> 川さんの図式を借りて言うと,「類的本質としての人間」(=人格)は質料的
> かつ形態的ですが,「人間は常に人格」であるわけではありません。
はじめから、はっきりとした考えがあったわけではありませんが、確かにその通りだな
と思います。
結局、「人間=人格」の図式は、人格である限りでの人間が根源的な主体であることを、
「人間は常に人格」の文言は、先の根源的主体が疎外に陥っても、人格性は消えてしま
うわけではなく、「人間」からは自立化していても存在はしていること、「人間」(=商品
所持者)は、自立化している物象とワンセットのものとしては依然として人格である
ことを表しています。
> では,浅川さんが,何故に質料因の極の方を「人間」(括弧付きではあって
> も)と呼んでいるのか,形相因の極の方を「物象の人格化」とか,「資本主義
> における人格性」と呼んでいるのか,それがよく解りません。浅川さんがそう
> 呼んでいるのは,浅川さんご自身,人間の方が質料的であり,人格の方が形態
> 的であるということを認めており,従ってまた人間=人格という図式を否定し
> ているからであるように思われます。
「人間=人格」の図式は、元から人格的ではないような人間は、人格の物象化の起点に
はなりえないということを表しているだけなので、人間の方が資料的で、人格の方が形
態的という捉え方と矛盾しないと思います。しかし、図式としては、非常にミスリー
ディングであったと思います。[ism-study.74]の[*1]でのように「類的本質として
の人間」と置くべきだったかもしれません。
> 3.1 相互的承認の主体はなにものか
>
> 第一の質問は──繰り返しになってしまいますが──相互的承認の主体の位
> 置付けの問題です。
>[…中略…]
>浅川説では,「「人間」
> たち」=商品所持者は分裂の一極(形相因の極)だけを代表している以上,
> 「「人間」たち」=商品所持者は「人格化した物象〔=経済的扮装〕を身に
> 纏」っていません。「「人間」たち」=商品所持者は,ただ分裂の一極である
> 限りでのみ,ただ形相因と質料因との統一でない限りでのみ,「「人間」た
> ち」=商品所持者であるわけです。
僕の場合は、「人格化した物象を身に纏」う前の商品所持者と既に[人格化した物象を
身に纏」っている商品所持者というような、時間的な前後関係とも言うべき区別を設
定してはいません。とはいえ、「ただ分裂の一極である限りでのみ、ただ形相因と質料
因との統一でない限りでのみ」商品所持者を「人間」と等置できる言うのはその通り
です。
この辺は確かに、非常にわかりにくい話になっていると思います。商品所持者は、当然
商品という物象を持っています。持っていますから、その限りでこの物象と統一された
状態にあります。しかし、この統一のあり方たるや、同時に分裂でもあるような統一の
あり方なのです。両極の区別を残したままの統一なので、一極のみを捉えることができ
ます。そのようなものとしての、商品と区別される限りでの商品所持者は、自分自身の
うちには、人格性を持たないのです。人格性は、彼が持っている商品のほう、物象の方に
あるのです。
> ところで,「「人間」たちは、人格化した物象を身に纏」う瞬間に,既に形
> 相因と質料因とを統一してしまっているはずです。つまり“身に纏う”という
> 仕方で統一してしまっているはずです。商品所持者=「「人間」たち」(質料
> 因)は「人格化した物象」(形相因)を身に纏って“いない”からこそ,質料
> 因という極にとどまりうるはずです。従ってまた,浅川説では,「「人間」た
> ちは、人格化した物象を身に纏」う瞬間に,最早──少なくとも両極の分裂的
> 一極としての──「「人間」たち」=商品所持者」は消え失せ,既に現実的統
> 一としての「“人格”」(二重クオテーションマーク付きの人格)が成立して
> しまっているはずです。
「人格化した物象を身に纏」うことが、既に、形相因と質料因の統一であることは認め
ます。
浅川wrote in[ism-study.75]
>物象への隷属は、疎外が外化からさらに深
>化した事態に他ならず、その意味で転倒なの
>ですが、そうではあっても、自立化した形態的
>契機として外化されてしまっている類的本質
>(=人格性)と質料的契機に貶められた「人間」
>との再統一ではある…
しかし、繰り返しになりますが、身に纏っていても、その纏われている物とその中身と
が区別でき、中身自体に人格性がない以上、中身それ自体は、人格ではないわけで
す。「身に纏」っただけでは、商品所持者は消えませんし、“人格”も成立しません。
浅川説では、“人格”の成立は、次のように現れます。
浅川wrote in[ism-study.75]
>商品所持者は、相互承認を通じて私的
>所有者という人格を自分の形態として
>受け取るわけですが、このとき同時に
>物象の側も私的所有者という人格を
>自分の形態として受け取ります。
このとき、物象はもはや、「人間」を引き回すものではなく、“人格”の意思の支配に服
するものとして現れます。意思的な能動性も、社会形成性も、“人格”に属するものと
して現れます。このような統一と、商品所持者プラス商品という統一を区別していま
す。
> しかるに,浅川説では,──
>
> >相互承認による法的人格の措提
> (同上)
>
> という箇所からも明瞭であるように,法的人格=「“人格”」(二重クオテー
> ションマーク付きの人格)は「相互承認」によって「措定」されるわけです
> (この点では,今井説も同じです)。それでは,この「相互承認」が経済的扮
> 装を「身に纏」うということかと言うと,そんなことは決してなく,浅川さん
> も「「人間」たち」は,(1)「人格化した物象を身に纏い」,その上で,(2)
> 「この扮装を互いの資格証明として承認しあ」うということを認めていらっし
> ゃるわけです。つまり,経済的扮装を「身に纏」って初めて,主体は「資格証
> 明」を獲得し,従ってまた「承認しあ」うことができるわけです。浅川さん
> も,経済的扮装を身に纏っていない段階と,相互的に承認された段階との間
> に,中間段階として経済的扮装を身に纏っている──だが相互的に承認された
> わけではない──段階を認めていらっしゃるわけです。
> このように,浅川説では,経済的扮装を身に纏っていない──経済的扮装を
> 身に纏う前の──主体が商品所持者であり,これに対して,相互的承認によっ
> て措定された──相互的に承認された後の──主体が法的人格であるというこ
> とは明確です。しかし,経済的扮装を身に纏った後の──しかしまた相互的に
> 承認される前の──主体(これが実存するということは浅川さんご自身が認め
> ていらっしゃる)の位置付けが不明確なのです。
> これに対して,今井説では,「人格化した物象を身に纏」った「「人間」た
> ち」こそが「そのものとして捉えられた商品所持者」です。つまり,浅川説と
> は違って,商品所持者が既に形相因と質料因との統一なのです。だからまた,
> 浅川説とは違って,商品所持者は人格なのです。
浅川説における「商品所持者」は、自分の内在的性格としては、もはや人格性を持って
いませんが、しかし、物象としてそれを“持って”おり、この物象とセットでならやは
り人格です。
> 3.2 経済的扮装というのは商品所持者という扮装ではないのか
>
> 細かいところで,いくつかよく解らない点はありますが,いずれにせよ,
> 「商品所持者の措定」が「商品を持って交換過程に現れる」瞬間に生じるとい
> うこと,そして商品所持者は「主体化した物象の運動を媒介する」ということ
> には解釈の余地がないと思います。更に,浅川説では,物象の運動には「主体
> 化」(浅川説では,少なくともこの場面では[*1]人格化と同義です)していな
> い段階(「物象の連関」の段階)と「主体化」している段階とがあり,ここで
> 主体化した物象とは「経済的扮装」のことであるということも明白です。しか
> し,そうだとすると,“商品所持者は経済的扮装(浅川説では資本主義におけ
> る人格性)「の運動を媒介するために交換過程に登場」する”ということにな
> ります。
あとの方でも、今井さんが指摘くださっていますが、主体化した物象と経済的扮装との
関係についての僕の主張には、混乱があるようです。
> “[ism-study.74] Correcting my scheme”での図式を見る限りでは,先ず
> 「人間」(括弧付きの人間)=商品所持者の措定があり,次に──「物象への
> 拝跪」を通じて──経済的扮装の措定があるようです。これによると,商品所
> 持者の措定は経済的扮装の措定に先行します。ところがまた,浅川さんは次の
> ようにも述べています。──
>
> >商品所持者が商品を持って交換過程に現れる
> >こと(商品所持者の措提)は、物象の主体化という意味での物象の人格化の直接
の
> 結
> >果です
>
> これによると,経済的扮装の措定(浅川説では物象の人格化=主体化)は商品
> 所持者の措定に先行します。どうもこの点の整合性がしっくりと来ないので
> す。
これは、「整合性」も何も、明らかに矛盾しています。僕自身のこれまでの議論を一貫
したものにするためには、この点については、修正を加えなくてはいけないと思いま
す。問題は、主体化した物象と経済的扮装を直接に同一のものとしていたことにあった
と思います。両者は、結局は同じものですが、物象が主体化しただけでは、つまり、商品
所持者を自分の運動の媒介物にしているだけでは、この物象は、経済的扮装にはなって
いないと考えるべきでした。
> これがですね,“商品所持者は物象(=商品)「の運動を媒介するために交
> 換過程に登場」する”ということであるのに過ぎないならば,よく解るので
> す。ところが,浅川さんはそうではない(少なくともそれでは不十分だ)とお
> っしゃる。あくまでも,それは経済的扮装(浅川説では資本主義における人格
> 性)の運動の媒介だとおっしゃる。単に物象の運動の媒介であるだけではな
> く,人格化した物象の運動の媒介であるとおっしゃる。けれども,それならば
> それで,その場合の経済的扮装(人格化した物象)というのは,商品所持者が
> 纏っている経済的扮装,すなわち以外のなに
> ものであるのでしょうか。
こっちが言ってることを変えてしまったので、質問も変わってこざるをえないことに
なってしまっていると思います。すみません。ただ、次の質問との関連では今お答えし
ておくべきことがあるようです。
> 浅川さんが「人間」(括弧付きの人間)という概念を持ち出してくるのはよ
> く解るのです。と言うか,これは俺がこれまでの議論であまり問題にしていな
> かった論点であって,浅川さんの投稿のおかげでクリアに問題設定された論点
> です。けれども,それが商品所持者と等置されているのがよく解らないので
> す。俺の考えでは,「人間」(括弧付きの人間)は商品所持者の一側面であ
> り,商品所持者自身が「人間」(括弧付きの人間)という側面と,“商品所持
> 者という経済的扮装”という側面とを統一しているのであって,浅川説とは逆
> に,「そのものとして捉えられた商品所持者」は「人間」(括弧付きの人間)
> とは違うように思われるのです。
人格が、商品(物象)プラス商品所持者というあり方をしている段階では、所持される物
と所持する者の間には区別が存在しています。人格が物象を代表するにはまだ至って
いないのです。物象が運動を領導していている関係がそのまま現れていて、「人間」の側
の自発的運動という形式をまだ持っていません。物象と「人間」の統一を「人間」だった
側が代表するようにはなっていません。
それから、「商品所持者自身が「人間」(括弧付きの人間)という側面と,“商品所
持者という経済的扮装”という側面とを統一している」ということになると、扮装と
しての商品所持者と統一するものとしての商品所持者との関係は、どのようなものと
なるのでしょうか?
> 4. 経済的扮装の位置付け
> […中略…]
>
> ところが,よく解らないのは,単なる形相因としての経済的扮装が物象の主
> 体化であるということなのです。経済的扮装は,主体化である以上は,主体と
> しての位置付けをもっているはずです。しかし,質料因から切り離されてどの
> ような主体があり得るのか,よく解らないのです。いわば,仮面を着けた主体
> あるいは主体が纏っている仮面ではなく,主体から切り離された仮面をイメー
> ジしてしまいます。
> […中略…]
> あるいは──もっと言うと──,浅川さんがおっしゃるような他方の極とし
> ての「経済的扮装」とは,物象の人格化のことではなく,物象(的関係)その
> もののことではないのかという疑問が生じるのです。類的本質が形相因と質料
> 因とに分裂している場合に,形相因の極とは実は物象そのものであるように思
> われるのです。
> ところが,浅川さんは,そうではなく,それは“主体化としての”物象の人
> 格化によって措定されるとおっしゃる。浅川さんの図式を見ると,類的本質が
> 「物象の連関」(形相因)と「単なる質料的媒介物」(質料因)とに分裂して
> います──ここまではよく解るのです。これはもうおっしゃる通りだと思いま
> す。ところが,浅川さんはもう一歩進んで,質料因抜きで物象の連関が「主体
> 化」しているということになっているわけです。そこで,分裂の一方の極とし
> ての「経済的扮装」は一体どのような“主体”であるのかということが解らな
> いのです。
形相因の極が物象そのものであるというのはそのとおりです。しかし、それが主体と
して現れるのは飽くまでも、質料的なものとの相関に置いてのことです。「人間」が物象
にひれ伏すから物象は能動的な力を、支配的な力を持つことになるということを物象
の主体化と考えました。
> 4.2 経済的扮装の措定はいつ成し遂げられるのか
>
> それでは,この経済的扮装はどこで発生するのでしょうか。
これは、従来混乱していた部分です。最初は、承認を要件とはしないようになっていま
したが、実は、承認を経てはじめて、既に人格化(主体化)してたいた物象が経済的扮装
として通用するようになるのではないかと考えるようになりました。
%%%%%%%%%%%
途中で言ってることを変えてしまったので、わかり難い話にしてしまって恐縮です。皆
さんに、新に解釈しなおすことを強いるのは心苦しいのですが、お許しください。