本文


 窪西さん、ISMの皆さん、今日は、神山です。遅ればせながら一筆感想
です。

 
>  1・2章のレジュメで指摘されてるように、この本は『ポスト資本主義社会』の
> 続編として読まないと、何を言ってるのかさっぱり理解できません。ドラッカー
> の著作は現状の社会認識について大風呂敷をひろげたあとに、変革主体たるホワ
> イトカラー労働者の現場にそくした戦術編(?)を書くというパターンをくり返し
> てるようで、60年代の『断絶の時代』や90年代の『新しい現実』『ポスト資本主
> 義社会』が戦略編、この本は戦術編に当たるようです。

 ドラッカーの眼差しがマルクス主義の外部で優れていたのは、資本のシ
ステムの正当性の亀裂、社会的統合の不在に注がれていたこと、社会的承
認を重視したこと、生産現場の革命性を認めていること、にあります。し
かしドラッカーの発想はマルクスからの転用であり、しかも、マルクス主
義者と同じく、マルクスの把握ではなく、――労働する人間ないし人間的
自然という対象世界の対象的産出者に即した矛盾の把握、疎外に実在する
共産主義の産出ではなく、疎外と共産主義とが無縁かつ強制的に結合され
ているのです。ドラッカーの職場自治の夢想は、私的所有からの賃労働の
断絶の前に、はかなく消え、彼は、マネジメントに共産主義を見いだし、
知識労働に、資本にたいする反システム、共産主義を見いだしたのですが
、これまた、組織に疎外されることと調停されることなく、個人の道徳に
システムの解放を見ることとなったといえます。道徳に解放を見いだすの
は、周辺革命論と同じです。主体が経営労働者、知識労働者になっただけ
のことです。年金基金に労働者所有制を、NPOに市場原理の超克を見るの
も、同じ発想です。もちろん、こういう物言いは、身も蓋もないといえば
そうなのですが、現代資本主義論の発想の分水嶺になると思います。
「リカードウの感傷的な反対者が主張したように、生産はそれ自体として
は目的ではないと主張しようとするとすれば、その人は、生産のための生
産が、人間の生産力の発展、つまり自己目的としての人間自然の富の発展
以外にはなにも意味しないことを忘れているのである。もし、シスモンデ
ィのように、個人の福祉とこの目的とを対立させるとすれば、…。シスモ
ンディが正当であるのは、ただ、この対立をもみ消し否定する経済学者た
ちに対してだけである。…その人たちは、こうした人間種族の能力の発展
が、たとえ最初は多数の個人や人間階級全体さえも犠牲にしてなされるに
しても、結局はこの敵対関係を切り抜けて個々の個人の発展と一致すると
いうこと、したがって個人のより高度な発展は個人が犠牲にされる歴史的
過程を通じてのみ達せられるということ、を理解していないのである」(
「1861‐1863年草稿」『マルクス 資本論草稿集』6、160〜161ページ、
MEGA,III/3.3,S.768.訳文中の傍点は省略)。ドラッカーとは、「この対立
をもみ消し否定する経済学者」と、「個人の福祉とこの目的とを対立させ
る」との裏でなされた握手です。「個人のより高度な発展は個人が犠牲に
される歴史的過程を通じてのみ達せられるということ、を理解」するのが
マルクス的な道です。

> 
>  『ポスト資本主義社会』の現状認識は、われわれはすでに未来社会への過渡期
> に突入して久しい(その特徴が展開され現実化している)というものですが、

この認識は、市場経済を最終地点とする発想の裏返しです。実はすでに資
本主義は終っているのだ、ということを、総体システムのある分肢(年金
基金、NPO)に見いだすわけです。すばらしく左翼的ですね。

>そ
> れについて述べるまえに、ドラッカーの産業社会論について少し触れたいと思い
> ます。
> 
> 
>  ドラッカーが最初に書いたのはファシズム論です。当時のナチス興隆の原因を
> 社会科学者たちはウソを千回言ったからとか大資本と結託したからと説明してた
> のですが、ドラッカーによれば、これらの説は間違っているだけでなくファシズ
> ムを発生させざるをえなかった現代社会の根源的な危機に気づいてない能天気な
> 議論であり、危機に立ち向かうために批判されねばなりませんでした。
> 
>  いまの社会が前提している社会の建前、「経済人」の社会という建前がすでに
> 崩れており、それに代わる建前が見つからない、これがドラッカーの危機意識で
> す。

> 
>  およそ社会というものはタテマエを持っています。タテマエを受け入れている
> からからこそ、人々は社会を生みだすような自己規律ある活動をし、みずから社
> 会のなかで一定の役割をもつ成員として自分を位置づけることができます。社会
> が機能するということは、王様を王様として人々が扱っているということです。
> 王様は裸じゃないか、と言った瞬間に社会は崩壊するのであって、あとに残るの
> はただの烏合の衆です。

(少なくとも初期の)ドラッカーの社会システム論の機軸は、社会的共通
意志による統合にあるといえるかもしれません。これはもちろん上部構造
といってもいえないこともないでしょう。しかし、はじめから、社会とは
建前を中心部分として含んでいるのだ、といっているだけで発生的把握で
ないことは言うまでもありません。
 彼は、『経済人の終わり』(1939)では、それぞれの社会・時代固有の
「人間像」「社会的信念」とその実質とのずれから、社会変革を説き、『
産業人の未来』(1943)では、社会が「機能する社会」として維持される
には、「社会的に決定的な権力の正当性」と「成員への地位・機能の付与
」とが条件となり、社会が「自由な社会」として維持されるには、「社会
的本質領域の自治」と「政治と社会の分離」とが条件となるとします。「
産業社会」ではこれらの条件はすべて満たされておらず、危機的であると
主張します。とりあえずドラッカーのシステム論は、個人によって社会的
装置が承認され、個人も社会的承認(「役割」)に媒介されて自己実現す
る社会のあり方を一応捉えたものと言うことができます。社会の共通理念
としての「経済人」と、社会の実質がずれていること、また、「商業社会
」的な私的所有的な正当化が崩壊したため、経営者の権力が正当性をもち
えないこと、労働者に地位と役割が失われていること、産業自治の不在、
官僚政治、これらによって「産業社会」の統合性が確立しないこと、ここ
にドラッカーは着目するわけですが、これは、気の利いた論者なら思い悩
む資本のシステムの分裂構造の把握の問題です。初期ドラッカーの課題は
、産業社会的社会実体をいかにして、自由で機能する社会に転換するか、
であり、現われた社会的生産を、自由なアソシエーションにせよ、とマル
クス風に言ったならいえるでしょう。
。
 
>  産業社会の現実は、経済的自由と経済的平等(所得の平等ではない)という理
> 念に反しており、企業は何のために・誰のために存在しているのか合理的な説明
> ができなくなっています。このことは同時に、経済人であるべき人々が社会の成
> 員としての位置づけを失い、宙ぶらりんのサスペンション状態になるということ
> でもあります。

>  こうして絶望した人々は、自由と平等にノーを言い、言い続けることによって
> のみ存続する社会、社会秩序の否定を理念とする社会、脱経済化を目標とする経
> 済社会を受け入れるようになります。産業社会を維持しながら社会を非経済化し、
> 人々の社会的位置づけを経済から完全に切り離す芸当ができるのは国民皆兵の軍
> 隊だけです。産業社会のタテマエ問題が何ら解決していない以上、ファシズムは
> いまだ現代社会の未解決問題であらざるをえないはずです。

ファシズムは、「経済人」を理念としないで、「軍隊」で人々の「役割」
を承認し、社会の戦争による拡張にアイデンティティを見いだす自己解体
的な道であったというわけです。これは「産業社会」そのものの解決され
ざる問題のありようだというわけです。

>  しかし、このようにマルクス主義を批判するドラッカー自身、マルクス主義の
> 図式を抱えこんでいるように思います。ドラッカーはプロレタリアートを社会の
> 解体の結果生じた有毒沈殿物と見なしますが、これは彼が周辺革命をマジメに恐
> れていることの証拠です。宙ぶらりんのプロレタリア周辺層と、誰にもコントロー
> ルされない特権中間層とはセットになってます。初期のドラッカーがファシズム
> の代案として示すのが中間層とプロレタリアートの統一戦線による産業自治です
> が、これは穏健なマルクス主義者の実践的結論とほぼ同じです。

プロレタリアは社会の歯車におとしめられ、社会統合は危機にさらされて
いる。彼らの自治をみとめよう。しかし、私有によって引かれた線はなく
なったわけではない。労働者も経営者的な態度をとってマネージメントに
関わろう、しかし、労働者の利益は団体によって主張しましょう。穏健左
翼そのものです。『株式会社の概念』(1946)を経て、『新しい社会』(
1950)では、産業企業体を大規模性、支配階級(経営者、組合指導者)、
中間階級(管理職、技術者)、経済・社会・政治機能、という様相で捉え
、この企業体に社会との一体性と、それによる正当性を見いだし、めでた
く、経営コンサルタントとしての社会主義革命家への道を進むわけです。

> 
>  『断絶の時代』のドラッカーはすでに危機意識が遠のいているようです。ブル
> ーカラーの衰退を彼は満足の念をもって眺めてます。

肉体労働者の衰退と、私有を越えた知識労働者の登場とはまさにドラッカ
ーにとって願ってもない理想です。



>反革命勢力は放っといても
> 滅びるでしょうが、間違ってこの道に進むことのないよう念入りに説教するのが
> 彼の心遣いです。断絶の時代がより展開されたのが『ポスト資本主義社会』であ
> るわけです。知識社会、グローバル経済といったキーワードは『断絶の時代』に
> も出てますが、年金基金社会主義とソ連崩壊はまだです。

崩壊する弁護論がドラッカーの本質だとすれば、危機意識とは弁護論の顔
であり、弁護論が危機意識であらざるをえない資本の自己批判性、自己否
定できない自己否定こそわれわれが捉えるものです。危機意識は危機意識
の遠のきによって乗り越えられようとするが一貫せず、
「マネジメントの正当性を明らかにするものが存在しない」と『新しい現
実』(1989)で書き、正当性不在をみとめつつ、事実的正当性の寄せ集め
をすることになります。


> 
>  知識社会の発見によって、まちがった労働価値説と洗練されていても無根拠な
> 新古典派とに分裂した旧時代の経済学をドラッカーはのりこえることが出来たよ
> うです。知識こそは富の源泉です。知識労働者はみずから生産手段をもっており、
> 知識社会のマネジメントは知識労働者による社会的生産過程の協同統治となりま
> す。彼の最終目標は、経済社会の『資本論』に匹敵する知識社会の『知識論』を
> 書くことです。過渡期が終わって社会が完成してからでないと書けないので、生
> きてる間には無理のようですが。

資本論は、生成しつつある社会、過渡期としての資本主義、完成された疎
外の社会、対立的な社会形成の時代、社会は完成されていない、個人と社
会とは統一されていないにも関わらず、社会の認識は可能である。社会を
対立的に産出している自然存在に即して可能である。これが基本立場です
が、「知識論」がまだ書けないと言うのは、まったく、社会が完成しない
以上社会は認識できないとする不可知論です。「知識論」は資本論になぞ
らえたにすぎず、資本論が資本のシステムに即自的に実在する社会主義を
捉えるのに対し、「知識論」は社会主義そのものだというわけです。


> 
> 
>  『明日を支配するもの』の中身についてですが、1章はわりと面白かったです。
> 大企業解体とかアウトソーシングとか所有関係の変化だけにとらわれてはいかん、
> 「目的−成果」の枠組みが重要なのだ、肝心なのは生産過程(の社会化)なのだ、
> というメッセージが伝わってきます。

法律上の区分を越えた有機的な生産体系の成立、生産過程が私有を突破す
ることこの革命性を、道徳論に転換しているのだと言ってよいでしょうか
ね。知識という社会的生産手段の所有、ノンカスタマーによるマネジメン
トへの制約、法的単位を越える実体的マネジメント、企業は株主の直接の
利益のためのものではないこと、年金受給者による所有、知識労働の革命
性、などなど、どれも社会的生産による正当化ですが、前提されているの
は、資本主義であり、「競争」における勝者論、知識=資本財論など、い
かにも弁護論的です。

まとまりがつきませんが、思いつきの感想でした。