本文
以前、研究会で取り上げた、かもがわブックレット『ど
こへ行く 社会主義と資本主義』所収の大西広論文
へのコメントです。
「自由の問題で社会主義を考えるのが大西のいい
ところである」(今井レジュメ)
反対に悪いところは(他にもあるが一番気になるの
は)、資本の専制のあり方の変化を「生産力のタイ
プ」で説明しようとする客観主義(生産力段階説)で
す。
これは、全くの物神崇拝(資本の威力を技術的な
ものと混同)で、こうなると当然、資本の威力の根
拠が実は社会的労働の生産力にあることも分ら
なくなります。
大西氏は、“社会主義には社会主義にふさわし
い新しいタイプの生産力がある”という考えに従
って、資本主義におけるその萌芽を探します。
彼の答えは、久米宏のような「個性の生産力」こ
そがそれだというものです。しかし、久米宏は、
他“局”に移っても、活躍しつづけることはできる
かもしれませんが、亀屋万年堂や亀有信用金庫
では、彼の「個性の生産力」は活かせません。
大西氏は、「「テレビ朝日」の放送施設や何やは
視聴者の選択基準とは関係がない」といいます
が、テレ朝である必要はないにせよ、やはりど
こかの放送施設とそれを動かすスタッフ達の結
合労働がなければ、久米宏の「個性の生産力」
も発揮できないはずです。
弱者救済民主主義[*1]批判が、なぜかこの論文
にはありません。大西氏の主張の中で、自由との
かかわりで社会主義を説いている点と並んで、
僕が最も高く評価する部分なのですが。唯一重な
るものがあるとすれば、社民主義批判の部分でし
ょうか?
[*1]民主主義は、この社会でもっとも
虐げられている人々を救済するため
にあるとする考え方が、弱者救済民主
主義です。救済されるものと救済する
ものが同じ(自己救済)であってもかま
いません。これ自体は、それほど有害
ではないのですが、社会変革の主体
をどこに求めるかという問題と結びつ
くと間違いを生みます。
しかし、彼は弱民批判を貫徹できません。なぜなら、
弱民の欠点は、それが体制補完に過ぎないこと以
上に、(資本主義の後の)社会主義派に変革主体を
見誤らせることにある(辺境革命論)にもかかわら
ず、大西氏自身の議論も結局、資本の支配から逸
脱しうる者に、変革主体としての役割を期待するも
のになるからです。しかも、彼の場合には、レジュメ
において指摘されているように、主体は自ら革命に
立ち上がる動機を持たず、大西氏の説得を待たな
ければ何ら資本主義変革の必要性すら感じない
人々なのです。
なんだか取り留めのないものとなってしまいました
が、以上大西論文へのコメントでした。