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 浅川さん,ISM研究会の皆さん,今井です。浅川さん,コメントご苦労様で
す。以下は,浅川さんのコメントへのコメントというよりは,俺のレジュメへ
の補足だとお考えください。

>やはりど
>こかの放送施設とそれを動かすスタッフ達の結
>合労働がなければ、久米宏の「個性の生産力」
>も発揮できないはずです。

 これに加えて言うと,久米宏の「個性」的な生産力について,大西さんは
「久米宏と企業の力関係は極めて久米宏寄りに強くなります」
(大西(1990),第56頁)と述べています。恐らくこの文で,大西さんは資本
から自由になる生産力的条件を例示しようとしているのでしょう。しかし,い
ざ人気がなくなれば,テレビ局は久米宏をいとも簡単に切り捨てるでしょう。
 結局のところ,大西さんは現実に発揮されている生産力を,資本の生産力か
らは独立的に(生産力それ自体として)規定しているわけです。だからこそ,
大西さんは久米宏の「個性」的生産力を「結合労働」の生産力とは全く別に規
定することができるわけです。恐らく大西さんは,たとえ仮に結合労働の生産
力は資本の生産力であっても,久米宏の生産力は資本から自由な生産力だとい
うことを主張したいのでしょう。こうして,資本主義的生産では,生産力は,
どれほど個人の「個性」的な生産力であっても,やはり資本の生産力として発
揮されるしかないのだということが,大西さんの場合には忘れ去られてしまう
のです。それ故にまた,一面では,大西さんは,生産力をその歴史的形態(資
本の生産力)から単純に切り離しているわけです。
 ところが,大西さんは生産力をその歴史的形態から単純に切り離すことがで
きるのからこそ,逆に,特定の歴史的形態(資本主義的生産関係)に特定の生
産力を対応させるようになります。もう少し解りやすく言うと,大西さんの理
論──と言うか,大西さんが依って立っている中村静治さんの理論──では,
資本主義社会と機械制大工業とが一対一で対応し,従ってまた社会主義社会で
は機械制大工業が消えてなくならなければならないということになっているわ
けです。要するに,彼らは頭の中で理想的な機械制大工業のモデルをつくりあ
げているわけです。大西さんの場合には,その理想像とは,少品種大量生産で
す。その理想像における労働者とは,なんの精神労働をも行わず,資本の恣
(ほしいまま)に弄ばれる労働者です。
 このように,大西理論では,生産力は,一方では一面的に歴史的であり,他
方では一面的に自然的です。大西さんはこのように同じく一面的なものを無理
やりにくっつけるわけです。資本主義的生産関係と生産力とは,歴史的な生産
関係と自然的な生産力との関係というイメージで,無理やりに,非有機的にく
っつけてしまいます。こうして,一面的に自然的な生産力と一面的に歴史的な
生産力との間を絶えず動揺しているのが大西さんの生産力論だと思います。も
う少し敷衍してみましょう。
 最初に,大西さんは大工業を技術的に──しかも単に技術的にすぎないもの
として──把握します。労働者個人の熟練で生産量が決まる職人的生産と,機
械で生産量が決まる大工業とを大西さんは区別します。ここで注意しなければ
ならないのは,これ自体は技術的な問題であって,歴史的生産関係の問題では
ないということです。だからこそ,大西さんの議論によると,われわれが住ん
でいる現代社会で発揮されている生産力は,資本の生産力(=「機械の生産
力」)でもあり得るし,資本の生産力以外のもの(=久米宏の生産力)でもあ
り得るわけです。
 今度は,大西さんは職人的生産の方を封建的生産関係に,また大工業の方を
資本主義的生産関係の方に無理やりに対応させます。そうすると,最初は技術
的な区別であったものが,そっくりそのまま(直接的に)歴史的な区別に転回
します。いまでは,“技術的なものは歴史的である”という単純な,直接的な
命題が成立しています。大西さんは,大工業を単純に技術的なものとして把握
するからこそ,今度はそっくりそのまま逆に,大工業を単純に歴史的なものと
して把握するわけです。だからこそ,大西さんは「「資本主義」は機械制大工
業という生産力基盤を持った社会であります」(同上,第52頁)と言うことが
できるわけです。
 しかし,冷静に考えてみると,資本が職人的な労働者を雇用しても,封建制
に逆戻りするわけではありません。熟練を持った職人であろうと,資本の下に
包摂されさえすれば(資本によって雇用されさえすれば),その個人的な生産
力は資本の生産力として現れざるを得ません。例えば,優れた大工さんであっ
ても,土建屋に雇われれば,この大工さんの生産力は土建屋の生産力として現
れざるを得ません。しかも,大工さんが二人,集まると,一人一人の生産力の
単純和を越える(1+1が3にも4にもなる)生産力が発生し,一人一人の生産力
に対して,資本の生産力がますます自立して現れるようになります。この点
は,浅川さんが久米宏の生産力について強調している通りです。
 同様にまた,冷静に考えてみると,未来社会において機械の役割がなくなっ
てしまうというのは変な話です。もちろん,未来社会は個性を持つ個人が主役
として現れるはずですが,個人の個性の発揮のためには,機械[*1]が──但し
資本としての機械ではなく,単なる手段としての機械が──不可欠なはずで
す。そうでないと,それこそ,未来社会が封建社会と同じになってしまいま
す。

[*1]厳密に言うと,機械(Maschine)と言うよりは機械
設備(Maschinerie)です。

 もっと言うと,寧ろ,未来社会は大工業の十全な実現であるはずです。一体
に大工業の概念が何だったのかと言うと,それは科学的知識の意識的適用でし
た。ところが,そもそも労働が知識の適用だったわけです。大工業は知識の適
用を,公開され体系化された知識の適用として普遍化したわけです(ここで
は,話を単純に,直感的にするために,何故に大工業では知識の適用が意識的
になるのかということは省略します)。
 職人の熟練は職人の中にしかありませんでした。他の職人は,親方の仕事を
目で盗み,体で覚えるしかありませんでした。小鰭(こはだ)の体長と体脂肪
率と捕獲時期とに応じての,塩分・酢酸濃度の調整を,寿司職人は直接的経験
の中で覚えて“勘”として発揮するしかありませんでした。これに対して,大
工業では,知識は公開されており,誰でもアクセス可能であり,その限りでは
事実上,共有されています(完全に共有されているわけではもちろんありませ
ん)。
 職人の熟練は一つのことにしか使い物になりませんでした。寿司職人は,平
目を五枚におろして薄く削ぎ切りにする技能に長けているからと言って,どう
して漆塗りの技能に長けていると言えるでしょうか。これに対して,大工業で
は,知識は体系化されており,この体系の発展に応じていくらでも応用可能で
す。古い話ですが,マルクスが使っているのでこういう古い例(ワットの例)
を持ち出すと,蒸気機関のメカニズムを知ってさえいれば,蒸気機関車にも汽
船にもハンマーにも応用可能なわけです。
 こう考えてみると,生産様式としての大工業,そしてその生産力要因として
の機械設備は未来社会でなくなるどころか,受け継がれて,完全に実現される
のだということになります。こういう風に把握するのではなく,変てこな間違
いを大西・中村さんが犯すのは,レジュメで俺が書いているように,労働過程
論を労働論として把握していないからだと思うのです(詳しくはレジュメをご
覧ください)。何故ならば,もし労働過程論を労働論として把握していれば,
“一体に大工業で労働の概念がどのように実現されているのか”という問題を
提起したはずだからです。

参照文献

大西広(1990),「資本主義と社会主義の現実から学ぶ」,『どこへ行く 社
    会主義と資本主義』,かもがわ出版