本文
ぼくの混乱した書き込みにお返事していただき、ありがとうございます。
|頭を下げてお願いしましょう。
お願いしてみます。
|やっぱり,エンゲル
|スの文(健さんが論文を書いた頃はマルクスの文だと思われていた)によって
|思考方法が制約されちゃっていますね。
やっぱりそうなのかなあ。考えてみます。
| マルクス派ポストケインジアン──あるいはポストケインズ派マルクシア
|ン──の連中の内生的貨幣供給論には,実はうんざりしているのです。
これは素晴らしい感性、じゃなくて問題意識だと思います。マルクス内生説が
フィリップス流信用創造論を批判するだけで満足してるのは何か胡散くさいなあ
と思っていたのですが。
ちなみに某R大学経済学部は、世代交代が進んだ結果、マルクス派ポストケイ
ンジアン2名とホンモノのポストケインジアン4名という国内でも貴重な拠点(?)
になっています。
|どうも貨幣の内生性に言及する人たちには,この内生的
|社会性が自己疎外的な社会性,商品にとって外面的な社会性だということが看
|過されがちなのでは?
銀行は「銀行員の(端末を操作する)指先」からいくらでも通貨をつくりだす
ことが可能な唯一の民間金融機関なのだから、銀行の公共性は明らかである。金
融制度改革は大手都銀のためのものではなく、銀行の公共性にふさわしいもので
なければならない。
――という議論は、「銀行の公共性」がいかなる性格の公共性なのかという点
の認識が欠けていると思います。
|単純商品流通の枠内の話をしても,マルクス風に言う
|と“貨幣が商品である”(≒商品流通の内にある)というだけでは駄目なの
|で,“商品が(自己疎外的に,自己疎外ゆえに,自己疎外によって)貨幣であ
|る”(≒商品流通の外に聳え立つ)というところまで行き着いて初めて貨幣の
|分析は完了するわけでしょう。
利子生み資本としての貨幣論においても、35章「貴金属と為替相場」まで行か
ないといけませんね。現在のドル問題において、貨幣はどこまでいってもブツで
あるということを説得力ある形で示すことが必要だとおもいます。
|せっかく管理通貨体制において“中央銀
|行は可能性から見ていくらでも貨幣を供給することができる(但しインフレに
|なっちゃうからやってはいけない)”という外生的貨幣供給論の表象──その
|裏返しは“個別的銀行は可能性から見ていくらでも信用を創造することができ
|る”という内生的貨幣供給論(?)の表象──が生まれてきたわけですから,
|貨幣供給の内生性と外生性との両者を批判しなければ行けないと思うのです。
久留間先生は谷田正三氏と編集した金融論教科書で「金融とは何か」という論
文を書いているのですが、これはまるっきり外生説批判と内生的預金創造論で終
わってます。
他方で、久留間さんは国家による商品流通への外的・恒常的介入(という生産
関係の変化)による価値収奪として「インフレーションの概念規定」をするわけ
です。「僕のインフレ論は基本的にニセ札インフレ論なんです」と久留間先生は
おっしゃいますし、ゼミ生のなかには久留間貨幣論はフリードマンに近いと理解
する人もいました。
このニセ札投入が内生的通貨創造を媒介にして「過剰な」紙幣の吸収・全般的
物価上昇に帰着するまでを述べたのが久留間さんのインフレ進行過程論(これは
競争論の領域)であるわけです。
資本論の「貨幣および商品流通」の世界が国家の恒常的介入によって変形して
しまっているというのが久留間さんの不換制資本主義の認識であって、そこから
氏の価値尺度マヒ論およびインフレ論が出てきます。この「柔構造」の資本主義
の意義と限界を明らかにしたいと久留間さんは言っているのですが、限界のほう
はインフレ(またはスタグフレーション)の進行という以外にハッキリしていな
いように思います。