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 窪西君,ISM研究会の皆さん,今井です。またまた,考えが纏まっていませ
んが……。

>フィリップス流信用創造論を批判するだけで満足してるのは何か胡散くさいなあ
>と思っていたのですが。

 科学としてではなく,社会的意識形態として考えてみると,結構面白いよう
な気がします。個別的銀行が信用を創造することができず,制度なるもの,全
体なるものが初めて信用乗数的に信用を創造することができるというフィリッ
プス流信用創造論は,理論的にはナンセンスであり,従ってまた久留間健さん
たちがこれを批判するのは正当だと思います。実践的にも,結局のところ,外
生的貨幣供給論はデウス・エックス・マーキナ(機械仕掛けの神,なんでもで
きる神)として中央銀行を想定する最悪の資本主義弁護論になります(中央銀
行さえ上手くやれば,資本主義は永遠に続く)。いや,体制弁護論ならまだま
しです。下手に左翼(=体制変革論)と結び付くと,管制高地としての発券機
関を征服して全部オッケーということになりかねません。

 確かに,個別的銀行が(預金創造を通じて)信用を創造しているのです。こ
こから出発しないことには話にもなりません。しかし,それにも拘わらず,銀
行はそもそも利潤率均等化を出発点にして,階級的資本(貸手代表・借手代
表)の形成によって発生するのであって,優れて社会的な存在であり,且つ優
れて「人為的」(≒意識的)な存在です。信用創造していようともいまいと
も。もちろん,信用取扱(そしてそれを通じて信用創造)によって,ますます
このような自覚された社会性を──つまり公共性を──獲得していくわけで
す。この意味では,他の産業部門とは異なって,銀行部門は正に銀行制度
(Bank- und Creditwesen)でなければならないのであって,しかもそのよう
なものとして意識されるわけです(結局のところは,銀行法の精神──零細預
金者保護と決済機構維持)。その意味では,個別的銀行ができないことを機構
が行うという表象が出てくるのは社会的には当然のような気がします。

 どうもポストケインジアン(典型的にはカルドア)の内生的貨幣供給論は個
別的資本の立場に固執し,外生的貨幣供給論は社会的総資本の立場に固執する
ように思われます。どっちも,資本主義的生産が生み出す一面的・分裂的な社
会的意識形態であるわけです。ですから,ポストケインジアンの内生的貨幣供
給論に共感を覚えるのは大いに結構なんですが,それが一面的なイデオロギー
なんだということに気を付けないと,どうも取り込まれてしまうように思われ
るのですね。

 全く同じ文脈で,三宅さんのレーニン批判──銀行を媒介者の位置,金融仲
介業の位置に貶めているという批判──も(大谷さんとは違って,俺はそれ自
体は正当だと思うのですが),気を付けておかないと,個別的銀行の信用創造
に目を奪われてしまい,個別的銀行が何よりもまず(もちろん単なる仲介者,
単なる金融仲介業してでは決してなく)貸手代表・借手代表として発生すると
いう肝心かなめの点が見失われてしまうのではないかと思うのです。すると,
第一に,個別的銀行は信用創造によって初めて公共的になるわけではないとい
うことが見落とされがちになります。第二に,無準備の債務を創造するのは準
備があって初めて可能だということ──つまり,無から有を生み出すのではな
いのだということ──も見落とされがちになります。

>マルクス派ポストケイ
>ンジアン2名とホンモノのポストケインジアン4名という国内でも貴重な拠点(?)
>になっています。

 あはははは……。

>久留間先生は谷田正三氏と編集した金融論教科書で「金融とは何か」という論
>文を書いているのですが、これはまるっきり外生説批判と内生的預金創造論で終
>わってます。

 因みに,俺は講義ではこれをパクって使っています。取り敢えず,内生的貨
幣供給論を説明しないと話にならんので……。

 フィリップスもフリードマンも経済学的には物凄い国家主義者,反自由主義
者です。但し,フリードマンには,政府がFed(連邦準銀)の顔で現れている
わけです。デウス・エックス・マーキナは政府ではなく,中央銀行なのです。
これは当然のことであって,なにしろ彼らの理論では,貨幣という公共的道具
を魔法のように創造するのは中央銀行という公共的機関(但し非民主的)であ
って,これに対して政府なんてのは私的個人からの税金収奪で成り立っている
私的機関(但し民主的)であるのに過ぎないわけですから。政治的な民主的手
続き(選挙)に即してではなく,経済的な機能(貨幣創造)に即して公共性を
考えると,Fedこそが優れた公共的機関になるわけです。“国家よ永遠なれ,
国家よ強大なれ”において「国家」を「Fed」に変えれば,そっくりそのまま
自由主義が反自由主義に,そして小さな政府が大きな政府に転回します[*1]。

[*1]もちろん,当然に,自明に,これは自由主義の理念
とも民主主義の理念とも真っ向から矛盾します。だから
こそ,フリードマンは(i)政府による恣意的な中央銀行
規制,およびこれとは正反対の(ii)規制されない(自由
な)独立中央銀行に対して,(iii)中央銀行に対する法
の支配というやる気のない折衷案を提唱するわけです
(フリードマン(1968),第6章)。次の文が彼自身の
矛盾を素朴に表現しています。──「自由主義者の目的
とするところは,他人の自由を侵さないかぎり個人一人
一人に最大限の自由を許すことである。そのためには権
力は分散され,権力が一個人または一グループに集中す
ることを避けねばならないと信じている。〔/〕権力分
散が必要だとすると,これは貨幣政策の分野では特に困
難な問題をひきおこす」(同上,第142頁)。優秀な経
済学者とは,この一文を読んで笑わない人のことを言い
ます。

 このように,外生的貨幣供給論の自由主義者は,自由
主義者たらんと欲すれば外生的貨幣供給論と衝突し,外
生的貨幣供給論者たらんと欲すれば自由主義と衝突しま
す。まぁ,肯定的にとらえるならば,資本主義的生産に
おける管理通貨制の一般化──従ってまた,アメリカで
のFedの権力の肥大化──は,すっかりもう自明なもの
になるところまで発展してしまったから,フリードマン
は,最早,個別的銀行の銀行券発券の再合法化を提唱し
たハイエクのような素朴な立場に留まれなかったのでし
ょう。

参照文献
フリードマン,ミルトン(1968),『インフレーションとドル危機』,新開陽
    一訳,日本経済新聞社,1970年(Milton Friedman, DOLLARS AND 
    DEFICITS: LIVING WITH AMERICA'S ECONOMIC PROBLEMS, Prentice-Hall, 
    Inc., 1968の邦訳)