本文


神山です。
また補足です。

今井さんの発言のすべてにコメントできなくてすみません。
広松問題、共同本質のこと、すっごく面白いんですが、頭を整理したら発
言させてください。

私は、[ism-study.17]で、

>  自由な自己意識という言葉は、近代の哲学する自己意識(抽象的に自由
> だが、対象から完全に疎外されている)も、近代の社会形成する自己意識
> (政治解放された自由な自己意識)も、対象を産出する労働する自己意識
> に環帰する。人間解放は、政治解放を前提し、その抽象性の乗り越えであ
> る。
>  こんな問題意識から、自由な自己意識という言葉を労働する個人に通
> 底する言葉として使ってみましたが、わかりにくかったでしょうか。類的
> 本質も、こういう対象の再獲得をしめす、だいたい同じ概念でしょう。

なんて筆を滑らせてますが、対象から、疎外された抽象的な、自由な自己
意識の個別性、直接的自己が形成されること、対象から疎外されなきゃ自
由な自己意識の形式すら形成されないのだということ、疎外されるがゆえ
に、知的に疎外された自己意識は、逆に科学という知的普遍性を形成し、
実践的に疎外された自己意識は、社会的生産の普遍性を形成する。(ここ
から先は混乱する危険があので興味のある方は私の以前の発言見てくださ
い)。これは、類的本質の疎外、という用語でも述べることができるはず
です。
、ま、意識なんて言葉を使うと意識先にありき、みたいなので、こういい
ましょう。労働は媒介的だが、その媒介性を完成させるには、媒介性が完
成していないのだから、媒介的であるがゆえに疎外されるという仕方にな
る。社会が未完である以上、個別と普遍の両契機はいったん孤立化されて
対立の中で鍛えられて、再結合する。人類は、社会ができてない以上、自
由な自己意識の理性的対話で社会をつくるのではなく、金(実体)の力で
つくってしまうのだ、他方、連関、トータリティを金に任せることで、自
由な意識の形態も孤立化して分岐するのだ。この意識に対して、実体が資
本として現象している構図。こんな大雑把な見取図で発言したので、今井
さんの問題意識とずれが生じてました。


私的生産の関係が非人格的に媒介され・物象化し、物象が主体化し、人格
を規定し、人格が物象的に行為する、私的生産がワンセットで交換の人格
=物象の循環圏を措定している、と述べたのは、じつは、おととい、宮田
さんと私の研究室でしゃべったことをヒントにしてます。また混乱を招く
いいかたかな。
(宮田さん、宿探し手伝ってって>尾崎君)

> [*2]但し,このような形式的・抽象的人格(端的には私
> 的所有者)が法的人格として法的妥当性を獲得するのは
> 歴史的な過程です。──「最初には交換によって,また
> 交換そのものの中で生じるこの事実上の関係〔=私的所
> 有者としての相互的承認〕は,後には契約等々で法的形
> 態を受け取るようになる」(Zu A. W.,S.377)。

「この事実上の関係」は文字通りの事実上の関係なのかなあ、とおもいま
す。「私的所有者としての相互的承認」なら、それ自体法的な、非共同体
的、非自然発生的、非人格依存的な振舞い、共同体を想定しない自由な振
舞い方(私的生産の私的交換としての振舞い)だとおもわれますから。ま
あ、共同体と共同体のあいだの、砂漠で行われた、言語の違う者たちの、
無言の合意は、確かに、法的に整備され得ませんが。今の思いつきですが
、「後には契約等々で」との対比で、「事実上」といわれているのではな
いでしょうか。「このような形式的・抽象的人格(端的には私的所有者)
が法的人格として法的妥当性を獲得するのは歴史的な過程です。」形態化
、整備、はそのとおりだと思います。

>  なお,このように法的人格の規定は私的所有者として
> の人格の規定を形式化したものにほかならないわけです

抽象的人格・私的所有者、法的人格・法的妥当性、法制度的整備、を区別
してるのですね。

>  「だから,彼ら〔=商品の保護
> 者〕は私的所有者として相互的に承認し合わなければな
> らない。この法的関係──その形式は契約である──
> は,法律的に発展していてもいなくても,経済的関係が
> そこに反映するところの意志関係であるのに過ぎない。
> 〔つまり,〕この法的関係または意志関係の内容は,経
> 済的関係そのものによって与えられているのである

これは重要!



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