本文
補足です。
> これから市場に行く商品番人・所持者(besitzer)は、物(Ding)を支配す
>る人間(Mensch)である、これらの「物を商品として互いに関連させるため
>には」、物を自己の意思のもとに置く「人格(Person)として互いに相対
>しなければならない」と。で、「意思行為」「私的所有者としての相互承
>認」「法的関係」が、商品の媒介としてでてきます。
という私の発言に今井さんがつぎのようにコメントしてくださっています
。
>神山さんの「物を自己の意思のもとに置く「人格
> (Person)〔……〕」」はどこで成立しているのでしょうか? 少なくとも「物
> を自己の意思のもとに置く」のは相互的承認に先行していますよね?
今井さんとの違いを強調してのべてみます。
私は、自己の意思のもとにおくこと自体は、人間労働の内面的契機とし
ての占有、自己のものとしてかかわっている人間の関係行為、だと思いま
す。物を自己の意思のもとに置く人間のこの振舞いは、所有(承認された
占有)の、人格(承認された人間)の契機でしょう。
所有も人格も、他に折り返しての、反省規定にある、対他的な意思関係
規定にある、とかんがえています。「として相互に相対」というわけです
。こういう反省規定の空間が共同体であり、商品生産では、交換の相互承
認に特化している。
これに対して;
物を支配する人間が物象に突き動かされ物象の五感となっている疎外・
顛倒。ここに今井さんは、物象の人格化と人格としての能動性の成立を見
るといってよろしいでしょうか。物象的関係に反省し、生きた人間の行為
が物象の行為である局面に、物象の対である人格の成立または人格化を見
る、といってよろしいでしょうか。物象という共同体に反省して、交換に
先立ち、人格としての能動性が成立している、となるのでしょうか。