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今井さん、皆さん、こんにちは。神山です。
今井さんの投稿のおかげで、ずいぶんと論理構造が鮮明かつ具体的になっ
てきました。


> >今井さんは、生産過程から出てきた商品所持者、商品の「番人」が、商
> >品の人格化で、法的契機を含まずに、相互承認を含まずに、人格で、それ
> >が先にあって…、というふうに把握されていらっしゃる、と理解してよい
> >でしょうか。
> 
>  正におっしゃる通りです。
> 
> >法に先行する経済的人格化のような関係をお考えですか。そ
> >の場合、「人格」とは何ゆえ、「人格」であるということになるのでしょ
> >うか。
> 
>  物象の人格化であるが故。──ということではご満足頂けないでしょうね。
> 要するに,一方では社会を形成する一般的な実践的主体(相互的承認において
> 他の人格を承認することができる個人)であり,他方では自分で責任を負うこ
> とができる個別的な自覚的個体性(意志と意識とを持ち自ら責任を負って自立
> 的・独立的に行為することができる個人)であるからです。そのようなものと
> して承認されていようといまいとも……。商品所持者は,相互的に承認される
> 前から,交換過程ではそのように振る舞っているのではないでしょうか?

「実践的主体」「個別的な自覚的個体性」は、私が「自由な自己意識」・
労働の媒介性と呼んだものに近い気がします。
 ただし、人間労働の合目的的な媒介的な自己性、人間労働の主体性、自
由な自己性、を媒介する社会関係(人格関係)が生産においては存在せず
、孤立化された当事者の交換行為によって産出されると考えます。

 今井さんは、生産の外に、交換相手を探す過程、交換・承認しあう過程
を区別し、前者の自己疎外的な振舞いに人格化をとらえるわけですね。

 物象の人格化の用語を、物象の担い手というように、あるいは、物象の
主体化、人間への内化というように、一般的に用いることには私は反対し
ません。
 あるいは、人格概念を、承認関係・媒介関係だけでなく、それに先立つ
自己意識性・主体性におくこと、物象的関係という社会関係において捉え
ること、も反対ではないのですが。
 今井さんも、人格化に次のような区別をとらえてますし。

> [*1]但し,ここでの人間というのは,あくまでも商品の
> 人格化としての商品所持者の素材的な側面(五感を持っ
> ており,商品を手籠めにすることができるような側面)
> であると,俺は考えます(人格の素材的・人間的側
> 面)。これに対して,交換過程における商品所持者のオ
> ープンな振る舞いが考察される時には──特に,相互的
> 承認が規定された以降に商品所持者が取り扱われる時に
> は──,主に商品所持者の社会的な側面が問題になって
> いるわけです(人格の社会的・人格的側面)。

 今井さんとの用語のずれは、次の問題意識の差からきている

>  その場合にポイントになるのは,何故に商品所持者たちは人格として相互的
> に承認することができるのか,人格であるからなのか,そうではないのか,と
> いうことなのです。(神山さんは俺が問題にしていることなど重々ご承知のこ
> とと思います。ですが,繰り返しになりますが,こういう問題に余り詳しくな
> い方もいらっしゃるかもしれませんので何度でも確認いたします。お許しくだ
> さい>>神山さん)。

 人格だから、相互承認できる、というのが今井さんで、商品の行動とし
て自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格、ゆ
えに、というのが私ですが、そもそも労働、人間の本質性を、人格性とよ
ぶならば、今井説と私はあまりかわりません。ただ私も「特別な主体概念
」批判に拘り、留保して考察中なわけです。

 こんなご返答でいいのか自信がありませんが、取急ぎの投稿です。