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 神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。この投稿は神山さんに対する反
論ではなく,お互いの対立点の確認です。俺と神山さんとは非常に微妙な点で
争っているから,以下では,しつこいようですが,皆さんに対して対立点を明
確にするために,俺流の言葉遣いで神山さんの見解を要約している部分があり
ます。誤解があるようでしたら,訂正してください。

>「実践的主体」「個別的な自覚的個体性」は、私が「自由な自己意識」・
>労働の媒介性と呼んだものに近い気がします。

 近いのだけれども,恐らく違うのでしょう。何故ならば,(a)もし商品所持
者が交換過程では即自的に「一般的な実践的主体」,「個別的な自覚的個体
性」であり,且つ(b)もし神山さんの「自由な自己意識」が人格であるなら
ば,そもそも商品所持者は交換過程では物象の人格化であるということになっ
てしまいますから。なお,神山さんは,“[ism-study.5] Re: On "Kabunusi 
Soukai"(OKUMURA Hirosi)”(1999/07/22 16:31)の中で,──

>〔一般的に,〕人格とは、自由な自己意識ということ。

と述べていますから,恐らく神山さんにとっては,上記の仮定(a)が成立しな
いのでしょうね。

>今井さんは、生産の外に、交換相手を探す過程、交換・承認しあう過程
>を区別し、前者の自己疎外的な振舞いに人格化をとらえるわけですね。

 俺の考えでは,「交換相手を探す過程、交換・承認しあう過程」の総てが交
換過程の諸契機なのです。「交換・承認しあう過程」の中で神山さんが「交
換」とおっしゃっているのは恐らく商品譲渡のことだと思います。もしそうな
らば,恐らく神山さんの場合にも(俺の場合にはもちろんそうですが),「交
換」で物象の人格化が形成されるわけではないですよね。で,「交換相手を探
す過程」というのは例示でありまして,より正確には交換過程に「入り込ん
だ」(eingehen)時点ということになります。まぁ,“交換過程に入り込んだ
ら普通の商品所持者は交換相手を探すだろう”ということで,こういう例示を
挙げたわけです。こうして,(a)俺の場合には,「交換」(商品譲渡)にも相
互的承認にも先行して,交換過程に入り込んだ時点で物象の人格化が形成され
ている;これに対して(b)神山さんの場合には,「交換」(商品譲渡)に先行
する相互的承認の時点で物象の人格化が形成される。こういうことなのでしょ
う。
 但し,あくまでも交換過程の諸契機の区別そのものも例示なのです。この例
示を挙げたのは決定的な対立点を浮き彫りにするためにです。言うまでもあり
ません,決定的な対立点というのは,神山さんがおっしゃるように,──

>人格だから、相互承認できる、というのが今井さんで、商品の行動とし
>て自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格、ゆ
>えに、というのが私ですが、そもそも労働、人間の本質性を、人格性とよ
>ぶならば、今井説と私はあまりかわりません。

これです(相互的承認の根拠問題)。但し,──これは強調しておきたいので
すが──,商品の人格化である限りで「人格だから、相互承認できる」という
のが俺の説です。しつこいようですが,確認しておきますと,神山さんの場合
には,「商品の行動として自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒
介的意識的性格」を持っているだけでは,物象の人格化は成立していないわけ
ですよね。相互的承認があって初めて人格だと。
 ただ,ちょっと解らない点もありますので,確認していただければ幸いです
(これは批判ではありません。あくまでも確認です)。(1)商品所持者は「商
品の行動として自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的
性格」をもつ人間的主体ですよね? (2)もしそうならば──これは(1)の解答
がyesである場合にのみ生じる質問です──,「商品の行動として自己の行動
をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格」は人格的な振る舞い
だと思うのですが,商品所持者は,交換過程にeingehenした瞬間には,まだ
「商品の行動として自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意
識的性格」を持っていないのですよね? (3)神山さんの上の引用文の書き方か
らは「労働、人間の本質性を、人格性とよぶ」のは俺の方であると神山さんは
規定していると思うのですが,結局のところ,神山さんは「労働、人間の本質
性を、人格性とよ」ばないのですよね? どうして,こういう質問をするのか
と言うと,もし(2)あるいは(3)の質問に対する解答がnoであるならば,商品所
持者は,交換過程にeingehenした瞬間には,人格として振る舞ってはいるが,
まだ商品の人格化ではない──ということになってしまうからです。

> 今井さんも、人格化に次のような区別をとらえてますし。
>
>> [*1]但し,ここでの人間というのは,あくまでも商品の
>> 人格化としての商品所持者の素材的な側面(五感を持っ
>> ており,商品を手籠めにすることができるような側面)
>> であると,俺は考えます(人格の素材的・人間的側
>> 面)。これに対して,交換過程における商品所持者のオ
>> ープンな振る舞いが考察される時には──特に,相互的
>> 承認が規定された以降に商品所持者が取り扱われる時に
>> は──,主に商品所持者の社会的な側面が問題になって
>> いるわけです(人格の社会的・人格的側面)。

 但し,俺の場合には,神山さんとは異なって,「人格の社会的・人格的側
面」は交換過程で即自的に現れるわけです。で,商品所持者は,(a)「人格の
社会的・人格的側面」を交換過程で既に即自的に持っているからこそ,相互的
承認することができるのであり,しかも(b)相互的承認においてこの側面を実
証する──こういうことになるわけです。俺の考えでは,「人格の素材的・人
間的側面」が重要になるのは,商品所持者のオープンな振る舞いにおいてでは
なく,寧ろ商品に対するクローズドな関係においてだということになるわけで
す。
 これに対して,神山さんの場合には,──「今井さんも、人格化に次のよう
な区別をとらえてますし」という発言を鑑みると,恐らく神山さんも上記の二
側面を認めているのだと思いますが,但し,──「人格の社会的・人格的側
面」は相互的承認において初めて形成されるのだと思います。