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 Y.K.君,神山さん,今井です。

>新自由主義についてですが、これは自由主義といえるのだろうかと思ったりし
>ます。新自由主義のばあい、自由は効率性達成のための手段にすぎず、目的では
>ないように思うのですけど。

 この点は,“[ism-study.11] Re^2: On "New Liberalism" etc.”
(1999/07/27 17:11)及び“[ism-study.13] Re^4: On "New Liberalism" 
etc.”(1999/07/28 20:25)で述べられていた「相互的転回」を念頭に置いた
発言だと思います。そこで,俺が述べていた相互的転回は,乱暴に言うと,
“効率性重視のマルクス主義・社民主義・ケインズ主義が公正性重視に転回し
てしまい,公正性重視の新自由主義が効率性重視に転回してしまった”[*1]と
いうものでした。

[*1]もちろん,もともとマルクス主義・社民主義・ケイ
ンズ主義にも公正性重視の側面があったし,転回した現
在でも効率性重視の側面を捨ててはいません。同様にま
た,もともと新自由主義にも効率性重視の側面があった
し,転回した現在でも公正性重視の側面を捨ててはいな
いわけです。但し,現在の“大きな政府か小さな政府
か”という議論を見ていると,やはり互いの主張のポイ
ントは相互的に転回してしまっているわけです。

 少なくとも新自由主義“政策”について言うと,「自由は効率性達成のため
の手段」にさえなっていないんじゃないですか。効率性達成(社会的な規模で
の資本の金儲け)のためならば自由でも反自由でもどっちでもいいというのが
ホンネの部分なんじゃないかと思います。ところが,効率性追及の無制限な承
認(効率性を追及するためなら,自由なんてじゃんじゃん弾圧してもいい;労
働者なんて大量失業の下でじゃんじゃん餓死すりゃいい)はイデオロギーとし
ては(社会統合の自覚的原理としては)成立しませんよね。そこで弁護論とし
て登場していくる(本人たちの意図からは独立的に)のが新自由主義“思想”
であると思うのです。

>「自由・平等・所有」に続けてマルクスは「ベンサム」を並べてますが、ぼく
>はこの「ベンサム」が妙にひっかかります。

 俺も『資本論』でどうしてベンサムが入ってきたのか,長いあいだ悩んでき
ました。Y.K.君はよくご承知のように,『原初稿』なんかでは,自由・平等・
所有の三位一体ですっきりしているわけです。今でもハッキリした解答を持っ
ていないのですが,一応,試論を述べておきます。
 自由(個別性)と平等(一般性)とを媒介的に統一しなければならないはず
であったのが市場社会そのもの(単純な商品流通そのもの)に即しては(私
的)所有,(フランス革命の)イデオロギー的スローガン──社会統合原理
──においては博愛であったわけです。とは言っても,社会契約論の立場に立
てば,あくまでも個人的な私的所有者こそが社会形成の主体であり,個人的な
私的所有こそが社会統合原理であったはずです。自由と平等とは,個別性と一
般性とは全く対立なく三位一体の項目をなしていたはずです[*1]。これに対し
て,フランス革命のスローガンにおいては,自由と平等とが,個別性と一般性
とが対立しているということの予感があります。もっと俗っぽく言うと,自由
主義的貴族と第三市民とプロレタリアとが階級対立しているということの予感
があります。だからこそ,三色旗が必要だったわけです。その意味では,政治
的な社会統合においては,もはや単純な商品流通の諸表象では隠蔽しきれない
資本主義的生産のリアリティが露出してしまっていると考えることができま
す。

[*1]こんな偉そうなことを言っている俺は,実は,社会
契約説についてはよく知りません。詳しい方,補足なり
反論なりをお願いいたします。「はずです」という表現
形式は,厳密なテキストクリティークに基づいていない
不安の表明だとお考えください。

 さて,Y.K.君もご存じのように,『経済学批判要綱』の「貨幣の資本への転
化」でも,現行版『資本論』の「貨幣の資本への転化」でベンサムについて記
述しているのと同じような内容はあるわけです(『原初稿』にもほぼ同様な記
述があります)。『経済学批判要綱』の「貨幣の資本への転化」は,「経済的
な形態,すなわち交換があらゆる面で諸主体の平等を措定するのに対して,内
容,すなわち〔諸主体を〕交換に駆り立てる個人的でも物象的でもある素材は
自由を措定する」(Gr, S.)──簡単に言うと交換という形態が平等を措定
し,交換の内容が自由を措定する──ということを明らかにするために,先ず
平等を,次に自由を考察しています。もちろん,自由・平等な私的所有者とい
う形態で両者を媒介するのが私的所有であるわけです。
 先ず,平等性(Gleichheit)の契機について,交換によって,主体(商品所
持者)は,──

Gleiche(同等なもの)──客体(商品)に即してはEquivalente(等価のもの)
  ↓
Gleichgeltende(等しいものとして妥当するもの)
  ↓
Gleichgültige(互いに無関心な,没交渉なもの)

というように,次々と規定されていきます。ベンサムは正にこの「無関心なも
の」(Gleichgültige)に関わっているわけです。取り敢えず,形式的平
等の形式化(=形骸化)が単純商品流通の枠内で行き着いた先が没交渉性
(Gleichgültigkeit),自分のことしか考えない私利私欲の塊だと俺は考
えます。
 それでは,この没交渉性は専ら平等にのみ関わっているのかと言うとそんな
ことはないのですね。もう一方の極である自由を考察しても,やはりこの没交
渉性が出てくるわけです。自由な人格たちは相互的承認を通じて暴力を用いず
に自由意志で互いに自己の商品を譲渡しあうわけです。どの人格も端的に交換
相手を手段化する(自己の単なる手段にする)わけですが,しかしこの関係が
相互的であるためには互いにとって互いが単なる手段になっていなければなり
ません。こうして,自己目的としての自己と単なる手段──「外面的な必然
性」(Einleitung, S.22)──としての自己とに自己を分裂させるということ
によって相互的な(とは言っても形式的・外面的な)振る舞いが可能になるわ
けです。交換は相互的な振る舞いであるからこそ,このような手段化が意味し
ているのは諸人格の相互的な手段化です。こうして,諸人格は動機としては利
己的な利益だけを追究していながら,事実としては,事実的には,事実上,相
互的な利益を──そして交換の連鎖を通じて共同社会的(gemeinschaftlich)
利益あるいは一般的な利益──を達成しているわけです。「一般的な利益とは
正に利己的な〔selbstsüchtig〕諸利益の一般性のことである」(Gr, 
S.168)。社会的なシステムが単純商品流通として現れている限りでは,これ
自体は別に幻想ではありません。ま,資本主義的生産としてはこういう予定調
和はぶっ壊されてしまうのですが……。
 こうして,現行版『資本論』の“ベンサム”も,やはり私的所有とか博愛と
かと同様に,自由と平等とを媒介する媒介項であるはずなのです。全然論証に
もなんにもなっていませんが,試論としては,現行版『資本論』の「貨幣の資
本への転化」でも自由と平等という極があって,但しこれを媒介する媒介項と
して(個人的な私的)所有とベンサムとの二つが叙述されていると断言してお
きます。まぁ,試論なんだから,このくらい大ぼらを吹いておいた方がいいで
しょう。
 それでは,一体,ベンサムはどういう媒介項なのか。これについてはまだ結
論が出ていないので,もう少し時間をください。

>複雑系経
>済学に至ると、個人の自由など幻想だと言って新古典派を攻撃する。でも市場と
>いうシステムでしか世の中うまくいかない(みたい)だから、これが浅知恵の人
>間にはちょうどお似合いなんだ、と開きなおっているわけです。

 でも人間が浅知恵だってことは絶対に論証することができない。だから,頭
ごなしに断言するしかない。
 彼らの前提については,神山さんが“[ism-study.32] Re: On "New 
Liberalism" etc.”(1999/08/05 12:22)で述べているとおりだと思います。
要するに,批判しているはずの当の土俵に自分で乗っちゃっているわけです。

>個々の課題で勝利することは二次的な重要性しかもたない、と
>いう答えかたもあると思います。

 『共産党宣言』の以下の記述を念頭においての発言だと思います。──

「労働者たちは時には勝利を得るが,それはほんの一時であるのに過ぎない。
彼らの闘争の本来的な結果は直接的な成果にはなく,労働者たちの団結がます
ます拡大するということにある〔Von Zeit zu Zeit siegen die Arbeiter, 
aber nur vorübergehend. Das eigentliche Resultat ihrer Kämpfe 
ist nicht der unmittelbare Erfolg, sondern die immer weiter um sich 
greifende Vereinigung der Arbeiter〕」(Manifest, S.471)。

闘争の目標は「個々の課題で勝利すること」であって,それ以外のものであっ
てはいけないと思います。“団結を目指して闘争する”なんてのは大馬鹿野郎
です。そんな闘争は結局のところ団結を勝ち取ることもできないでしょう。Y.
K.君がおっしゃる通り,団結を勝ち取るためには,「個々の課題で勝利するこ
と」を目標にして戦うしかないと思います。
 ただ,まぁ,現実問題,総ての闘争に勝利を収めることはできるなんてこと
はあり得ないわけです。それどころか,多くの闘争で敗北せざるを得ないわけ
です。だからこそ,「本来的な結果」は団結(資本の生産過程で事実的・無自
覚的・物象的に形成されている社会性を,最初は先ず,取り敢えずは,階級の
内部で公然と承認していくということ)になるわけです。

>団結の輪をひろげるためにも個々の課題でたたかわなければなりませ
>ん。

 おっしゃる通りだと思います。寝てて団結が広がるなら苦労はありません。

>また、個々の課題で無限後退しながら「合理化や自由化はいずれ生産の社会
>化を進展させ、階級対立を激化させるであろう」と言うだけでは、闘争回避の言
>い訳のようになりかねません。

 端的な敗北主義ですね。

>金融危機への対処の仕方を例にとると、一方で銀行の公共性を重視し「金を出
>すかわりに口も出す」、公金投入を認めるかわりに議会が銀行経営に口を出す、
>という政策があります。

 俺はこっちをとりますね。破滅するぞと言って破滅するよりも,破滅を避け
ましょうと言って破滅する方が資本主義の限界を暴露するのに役立ちます。そ
れに将来のリスク極小型社会(プロ独のこと)にとっても,いい経験になりま
す。所詮プロ独では,市場を利用して市場を止揚していかなければならないわ
けですから。

>民主党の“市民的公共性”
>と新左翼の階級闘争路線のどちらかを取れと言われれば

 これしか選択肢がないという仮定ですか? それはかなり絶望的な仮定です
ね。

>現実の選択肢から選ぶとなると

 新左翼を公然と支援し,民主党を隠然と支援するってのは,どうでしょう。
なにも二者択一しなければならないってことはありません。二枚舌で行きまし
ょう。リスク回避,リスク回避。

参照文献

Einleitung, Einleitung zu den ,,Grundrissen der Kritik der 
    politischen Ökonomie``, In: MEGA^2 II/1.1.
Gr, Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie, 
    Ökonomisches Manuskripte 1857/58, In: MEGA^2 II/1.1--1.2.
Manifest, Manifest der Kommunistischen Partei, In MEW, Bd. 4.