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Y.K.君,ISM研究会の皆さん,今井です。
俺は“[ism-study.38] Re^6: On "New Liberalism" etc.”(1999/08/06
9:53)で次のように述べました。──
>それでは,一体,ベンサムはどういう媒介項なのか。これについてはまだ結
>論が出ていないので,もう少し時間をください。
と申し上げました。俺は昔,“約束を守らないと閻魔様に児童虐待される”と
聞きました。俺は残念なことにもう子供ではありませんが,それでも閻魔様は
怖いから,取り敢えずでっち上げを投稿して,約束を果たしたことにします。
それでは,俺の大ぼらの続きを聞いてください。あくまでも試論ですから,後
になってコロコロと意見を変更しても怒らないでください。
以下では,マルクスは超越的に正しいのに違いない──従ってマルクスが
「貨幣の資本への転化」で自由・平等・所有とともにベンサムを挙げているの
は絶対に正しいのに違いない──という不当な偏見から,ベンサムの位置付け
を探ってみました。感覚的で,殆ど論証になっていません。こんな投稿が後々
まで残るのかと思うとゾッとしますが,まぁ,試論ということで。それに,こ
れは主に叙述の問題であって,理論的にはそれほど大きな問題ではないから余
り真面目に読まないように。(よし,逃げ道はつくったぞ)。
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第一に,自由と平等との和解性において自由と平等とを媒介するのが所有お
よびベンサムである。そのようなものとして,所有およびベンサムは優れて単
純商品流通の諸表象であり,「貨幣の資本への転化」において取り扱われなけ
ればならない。
(1)人格の独立的な振る舞いに即して自由と平等とを媒介するのが所有であ
る。その統一形式は“自由・平等な私的所有者”である。自由・平等な私的所
有者が自由と平等とを統合し,これを通じて社会を統合するべきものであると
いうことは論を俟たない。なお,所有によって媒介される限りでは,自由・平
等は形骸化していてはならないはずである。この意味で,所有は積極的・肯定
的な社会統合原理なのである。
(2)人格の個別化(孤立化)された振る舞いに即して自由と平等とを媒介す
るのが没交渉性(ベンサム)である。一方では,形式的平等は,正に形式的で
あるからこそ,没交渉性に形式化(形骸化)し,他方では,形式的自由は,正
に形式的であるからこそ,没交渉性に形式化(形骸化)する。一見すると,あ
たかもこれは社会破壊原理であって,決して社会統合原理ではないかのように
見える。しかし,没交渉であるという態様が可能であるのは交換関係が相互的
な関係であるからである(無人島のロビンソンには,そもそも没交渉な相手な
んていやしないから,没交渉性は絶対に成立しない)。それ故に,(a)正に互
いに没交渉であるからこそ,事実そのものにおいては,諸個人は交換の連鎖を
通じて社会を形成してしまっている。しかしまた,(b)正に互いに没交渉であ
るからこそ,彼らは共同して自覚的・計画的に社会を形成しているのでは決し
てない。だから,(c)もし諸個人が没交渉であるならば,社会は予定調和であ
るしかない──予定調和であるべきである,予定調和でなければならない──
のである。つまり,ベンサムもまた,社会統合原理であって,予定調和の世界
を齎すしかないのである。その際に,現実に予定調和の世界が訪れるのかどう
かということはどうでもいいことである。そもそも没交渉性を前提する限りで
は,必然的に予定調和が当為として現れざるを得ないのである。なお,没交渉
性(ベンサム)によって媒介される限りでは,自由・平等は形骸化してしまっ
ている。この意味で,ベンサムは消極的・否定的な社会統合原理なのである。
第二に,所有・ベンサムに対して,自由と平等との(暴露された)対立
性[*1]において両者を媒介するのが博愛である。既にここには自由と平等との
対立という愚劣な形式,転倒した形式においてではあっても,資本主義的生産
の対立性が予感されている。だから,博愛は単純商品流通の諸表象ではない。
それは単純商品流通とは異なる資本主義的生産の対立性が暴露されていなが
ら,なお且つ自由と平等との和解という形態で単純商品流通の諸表象によって
資本主義的な社会を統合しようとする表象である。だから,『資本論』の貨幣
の資本への転化においては,博愛なんてものが出てきてはならないのである。
『資本論』の貨幣の資本への転化において出てくるべき(自由と平等との)媒
介的統一形式は所有・ベンサム以外にはあり得ないのである。同様の理由によ
って,博愛は三位一体をなさない。神と子と対立してはならないのである。
[*1]ここでの対立性とは厳密な意味での対立性である。
すなわち,同じ根っこから発生するような,同じ土俵の
上で戦うような,一方があってこそ初めて他方があるよ
うな,そういう対立性である。
さて,現代社会の正当化には二つのものがある。第一の正当化は,単純な商
品流通の諸表象によって現代社会を正当化する態度をとる。これによると,現
代社会は自由・平等な私的所有者が形成する市場社会,自由主義社会,民主主
義社会であり,真善美の社会,正当化され得る唯一の社会,絶対的に素晴らし
い社会である。この態度こそは本来的な正当化の態度である。しかしまた,単
純な商品流通において発生するこの本来的な正当性は資本主義的生産のリアリ
ティによって徹底的に批判される。そこで,現代社会を不当なものとして受け
取る当事者意識が発生する。
これに対して,どうにかして資本主義的生産の社会性・機能性によって現代
社会を守ろうとする態度が生まれる。すなわち,第二の正当化は,資本主義的
生産の敵対性を認めた上で,資本主義的生産の社会性・機能性によって現代社
会をどうにかして正当化しようとする態度をとる。しかしまた,これによる
と,現代社会は,封建制社会・社会主義社会などに較べて“ヨリまし”な社
会,必要悪としての社会,相対的に素晴らしい社会でしかない。だから,この
態度は破綻した正当化(正当化になっていない正当化)の態度である。
それでは,以上の点に即して,所有とベンサムとはどのようにして位置付け
られるのか。明らかに,所有もベンサムも,単純商品流通の諸表象に属する以
上,本来的な正当化(第一の正当化)に属するはずである。しかしまた,両者
とも第一の正当化に属するとしても,両者の間では意味合いが異なっている。
資本主義社会の真っ只中に生きているわれわれにとっては,単純商品流通で
の自由・平等は形式的自由・形式的平等でしかなく,正にその形式性の故に資
本によって徹底的に批判(否定)されている──すなわち,ますます形式化・
形骸化している[*1]──のだが,しかし単純商品流通の枠内においては実質的
な自由・平等でなければならないはずである[*2]。そして,(個人的な私的)
所有が想定しているのはこのような意味での(形式化・形骸化してはいないよ
うな,そしてその限りで実質的であるような)形式的な自由である。
[*1]形式的なものに対して実質的なものが疎遠になって
いる(そのように現れている)ということは,それ自
体,形式的なものが形式化・形骸化してしまっていると
いうことである。
[*2]形式化・形骸化が隠蔽されているような形式的な自
由・平等とは,要するに実質的な自由・平等として現れ
ているような形式的な自由・平等のことである。
しかしまた,単純商品流通それ自体が,疎外された世界,転倒した世界であ
る以上,単純商品流通の枠内においてもまた形式的な自由・平等が正に形式的
である(実質的ではない)ということが──あるいは私的な個人が単に相互的
に独立的であるだけではなく,相互的に疎遠であるということが──表示され
なければならない。単純商品流通の枠内で,疎外の構造を表示し,しかしそれ
を通じて事実上,社会の機能的な存立[*1]を表示してしまっているのが“ベン
サム”なのである。だから,ベンサムは,単純商品流通が単純商品流通の枠内
で措定する本来的な正当化[*2]でありながら,しかもなお且つ資本主義的生産
の敵対的に社会的な機能性を──資本の生産過程での貨幣の資本への実質的な
転化を──先取りする(antizipieren)形態なのである[*3]。だからこそ,
“ベンサム”は自由・平等・所有の後に,つまり単純商品流通での貨幣の資本
への形式的な転化の最後に置かれなければならないのである。
[*1]これは言うまでもないことであるが,社会の機能的
な存立は,突き詰めていけば結局のところ資本主義的な
生産によって齎される。しかしまた,これもまた同様に
言うまでもないことであるが,ベンサムが露呈している
のは資本主義的生産の社会性それ自体では決してない。
そうではなく,“ベンサム”は,あくまでも単純商品流
通に即して,単純商品流通として,社会の機能的存立を
表示しているのである。
[*2]あくまでもここでは,「天賦人権の真のエデン
〔ein wahres Eden der angebornen Eden〕」(KI (2.
Auflage), S.191)が扱われているのである。それで
は,何故に,“ベンサム”が自由・平等・所有とならん
で「天賦人権の真のエデン」のエレメントであるのか。
果たして,私利私欲のガリガリ亡者であるということそ
れ自体が「天賦人権」なのか。そうではなかろう。私利
私欲のガリガリ亡者であっても,それでもなお社会が予
定調和的に機能するということが「天賦人権」なのであ
ろう。すなわち,社会が予定調和的に機能する以上,
(川平慈英調で)“ガリガリ亡者であってもいーんで
す”ということ,“村落共同体とか領主のことなんて,
なーんにも考えなくてもいーんです”ということこそ
が,“ベンサム”が「天賦人権のエデン」のエレメント
である所以なのである。
[*3]自由・平等な私的所有者が政治的には優れて有権者
であるのに対して,没交渉的な個人は合理的な経済人で
はあっても有権者のあるべき姿ではあり得ない。
以上,(a)単純商品流通の枠内では自由(個別性)と平等(一般性)との媒
介は所有とベンサムとに分かれる(自由・平等を媒介するものとして所有とベ
ンサムとが「貨幣の資本への転化」で扱われなければならない)ということ,
しかも(b)単純商品流通の枠内ではそのような媒介は所有とベンサムしかあり
得ない(博愛なんかは「貨幣の資本への転化」で扱われてはならない。──裏
を返すと,自由・平等を媒介するものとしてただ所有およびベンサムしか「貨
幣の資本への転化」では扱われてはならない)ということ,しかも(c)「貨幣
の資本への転化」ではベンサムは自由・平等・所有の後に置かれなければなら
ないということ──を痴人の独り言として説明したつもり。
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以上,大ぼらを吹いてみましたが,所有と同様にベンサムも自由(個別性)
と平等(一般性)とを媒介する媒介項であるということには確信を持っていま
す。確信を持っていないのは,所有という媒介項とベンサムという媒介項との
区別がどこに存するのかという点です。
俺の説明は自分で読み直してみても説明になっていない,相当にいいかげん
なものですが,解説書とかではどういうふうに説明しているのですかね。>>詳
しい方。それともみんな悩んだりしないのかな。
参照文献
KI (2. Auflage), Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie.
Erster Band. Hamburg 1872, In: MEGA^2 II/6.