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引き続きの大作を送っていただきありがたく思います。たいへん勉強になりま
した。
> こんな投稿が後々まで残るのかと思うとゾッとしますが,
ぼくはすでに混乱した質問など書いてしまったわけで、もっとゾッとします。
気楽に投稿できるようにするためには、MLの議論は後々まで深く詮索しないの
がマナーかと(と言って過去の恥をごまかす ^^;)。
> ベンサムもまた,社会統合原理であって,予定調和の世界
> を齎すしかないのである。その際に,現実に予定調和の世界が訪れるのかどう
> かということはどうでもいいことである。そもそも没交渉性を前提する限りで
> は,必然的に予定調和が当為として現れざるを得ないのである。
そうだと思います。予定調和論に根拠は無いんではないでしょうか。
> 社会の機能的
> な存立は,突き詰めていけば結局のところ資本主義的な
> 生産によって齎される。しかしまた,これもまた同様に
> 言うまでもないことであるが,ベンサムが露呈している
> のは資本主義的生産の社会性それ自体では決してない。
> そうではなく,“ベンサム”は,あくまでも単純商品流
> 通に即して,単純商品流通として,社会の機能的存立を
> 表示しているのである。
これはベンサムの説明として個人的に気に入りました。広松の「相互的転回」
に似てるような気がします。
> あくまでもここでは,「天賦人権の真のエデン
> 〔ein wahres Eden der angebornen Eden〕」(KI (2.
> Auflage), S.191)が扱われているのである。それで
> は,何故に,“ベンサム”が自由・平等・所有とならん
> で「天賦人権の真のエデン」のエレメントであるのか。
> 果たして,私利私欲のガリガリ亡者であるということそ
> れ自体が「天賦人権」なのか。そうではなかろう。私利
> 私欲のガリガリ亡者であっても,それでもなお社会が予
> 定調和的に機能するということが「天賦人権」なのであ
> ろう。
この点がよく分かりません(分からないので「ベンサム」がひっかかっており
ます)。私的所有のばあいは、自己労働をくわえたモノは(自分が支配できるこ
とが確実な)自分の身体の一部とみなされるわけですが、ベンサムのばあいは、
このような自明性・確実性がぜんぜん無いと思うのですが。自明性から説明する
ことができない以上、ベンサムを天賦人権にもとづくものと言うことはできない
と思います。
ベンサム的正当化は、流通の表面で生じる習慣・常識の表明として「社会の機
能的存立」を唱える以上のものではないように思います。
> 解説書とかではどういうふうに説明しているのですかね。>>詳
> しい方。それともみんな悩んだりしないのかな。
詳しくないですが、多くのばあい「単純流通の表面から出てくる単なる弁護論」
として4つとも片づけてしまってるような気がします。正当性についての意識が
無いというか、ここでは誰もが流通仮象論者になっているというか。